私の翻訳生活、そして将来への想い●畝川晶子

2013/07/05

畝川 晶子 

(せがわ あきこ)

 

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技術翻訳者 (日英・英日)。日本翻訳者協会 (JAT) 会員。広島県立女子大学文学部国文学科卒。英会話学校英語講師・日本語講師を経て、(財) 広島アジア競技大会組織委員会の通訳・翻訳専門職員。6年間、大会の準備段階から各オリンピック委員会との渉外業務、国際会議の開催、大使館への協力要請とアタッシェ会議、技術検証、メディア/プレス・輸送・会場関連や各競技開催に派生する数多くの印刷物等の翻訳と通訳業務に従事。大会終了後は、国際オリ ンピック委員会に提出する公式報告書の英文版を作成。後にフリーランス翻訳者として活動開始。IT分野からスタートし、機械・自動車・品質管理を含む工業 分野全般と医療機器を手がけて16~17年。8~9割は英訳。現在は、医薬分野の専門性を高めるべく勉強中。趣味:料理・音楽鑑賞・読書・ガーデニング等
 ブログ:翻訳者akoronの一期一会 http://akoron.cocolog-nifty.com/blog/

 


昨年度、JAT発行のエッセー集「翻訳者の目線」に「翻訳の到達点」という記事を寄稿させていただきました。翻訳者として自分がどこに向かっているのか、これまでの翻訳生活を自省も込めて振り返りながら、今後への想いをもう一度詳しく語ってみたいと思います。

 
1. 英語へのこだわり~翻訳に出会うまで~
なぜ、英語が好きなのか。この問いに理由はありません。シェークスピアを原文で読むとかではなく、英語を使った国際業務に憧れていた私は、東京の某大学を目指していました。願書も提出しているというのに、受験直前の両親からの反対で上京できず、一気に奈落の底に突き落とされました。結局、地元の県立大学の国文科に入学した私は、悶々とひねくれた (笑) 学生生活を送り、教員を目指す同窓生とは距離を置き、英検1級講座や数学等、理系の学科の授業に忍び込んだりしていました。
我が家では全ての期待は兄に向かっていたので、私は「女の子だから」で全てが終わるという、男女の壁の中に閉じ込められていました。それでも卒業後、英語講師や日本語講師をしながら「コミュニケーション」の楽しさに目覚めていきました。
やがて、勤め先の紹介や派遣会社経由で、土日に翻訳・通訳業務を少しずつするようになりました。国際会議場のラウンジや平和公園内のレストハウス、その他会議室を借りて、日曜日に仲間と勉強会も始めました。講師のいない勉強会では、対訳本を使って、日本を紹介するガイド的なものから政治経済までやりました。 暗記は得意で、「変換」としての翻訳の基礎固めとなったかもしれません。また、無償・有償を問わず、通訳としては日米市長会議、セレモニー、故手塚治虫先 生がグランプリを獲得した国際アニメーションフェスティバルの審査員付き通訳等、多くの現場に出て行きました。同時通訳科にも通い始めていましたが、自分 が「何を目指しているのか」よく分かっていませんでした。怖いもの知らずで、言葉が人と人、異なる文化と文化の架け橋になる喜びに浸っていたように思いま す。
 
2. 翻訳との出会い~夢中で苦痛な翻訳、そして達成感~
真の翻訳との出会いは、広島アジア競技大会組織委員会で公式文書を作成し始めてからです。まだ大会準備段階から職員となったので、最初の翻訳はコレポンでした。時は湾岸戦争勃発時で、アジアオリンピック評議会 (OCA) の所在地クウェートはイラクに侵攻され、一時連絡先はイギリスに変わりました。一方、広島では大会準備としての広島新交通システム建設時に橋桁落下事故が起こり、23名もの死傷者を出しました。そういった場面で発生したコレポンとしての翻訳は、「情報を正しく伝えること」が最も大事ながらも、宛先がオリン ピック委員会会長、各国大使、皇族、政府の要人だったりしたので、英語でも敬語に相応する表現が求められました。
次に始めた翻訳は、数々の会議資料。協定に導くためにも、選んだ言葉のニュアンスに隙を作ってはいけません。最初はネイティブの職員も、国際業務を適格に指揮できる上司もいなく、個人の伝手を頼ってネイティブチェックをお願いしていました。そして予算を確保してもらい、5年間、ネイティブとの共同作業を始めました。翻訳業務の分かる上司 にも恵まれ、会議前には、10分おきに変わる日本語表現に翻訳の修正を繰り返しながら朝の4時まで格闘していたこともあります。
当時の主要業務は 公式文書の作成でした。各競技のテクニカルハンドブック作成にあたっては、各競技団体との会議を開催し、各アジア競技連盟と国際競技連盟のルール集を読ん で作成しました。また、広島の観光都市紹介のパンフレットはもちろん、メディア・プレス、放送、医事衛生、交通システム、宿泊、資格認定、芸術式典等、ガ イドブックやマニュアルを作成しました。外部の翻訳業者さんに発注することもあり、コーディネイター的役割も派生して校正・リライトの業務も多く、 「The Chicago Manual of Style」は真っ黒になるまで使用しました。
毎日、冠詞の使い方やコロケーション等々、夢の中まで悩み、ネイティブチェッカーの間にも意見の齟齬があったのに驚いたりもしました。
また、翻訳や通訳業務に参考資料が必要であることは、当分の間、組織内でも十分な理解が得られていませんでした。ただの表敬と言われて行った先が、TVカメ ラの入った会議だったり、深夜に議題も告げられずに途中から通訳として会議室に入れられたり、全てのスケジュールを疑うことを覚えた私は、自ら各課を回って参考資料収集と訳者への資料提供の大切さを訴えました。怒濤の毎日でしたが、香港でのアジアプレス連合会議における通訳や、大会終了後に国際オリンピッ ク委員会に提出した公式報告書の英文版作成に携わることができたのは、貴重な経験となったように思います。

 
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<公式報告書・公式写真集等>



3. フリーランス翻訳者として~未知との遭遇と喜び~
財団解散後、フリーランスとして翻訳を開始しました。某財団の理事付通訳・翻訳というお話もありましたが、大きな組織に少々疲れていた私はフリーの道を選びました。前職でぴったり重なる技術分野はありませんでしたが、初仕事はThe Japan Timesで見つけました。IT分野です。当時はまだサーバーにダイアルアップ接続という時代でしたが、インターネットの普及直前だったので、仕事はいく らでもありました。同時にソフトウェアの会社が直接開講している講座やスクーリングを受講したり、他の通信教育の他、放送大学でも情報工学や電気等を学ん だりしました。Niftyの技術系のフォーラムやオフ会に出たり、自分でPCの筐体を開いてメモリ、CPU、ハードディスクを交換したりして、何でも自分でやってみる楽しさも覚えました。が、某ツールの導入で徐々に編集作業のような翻訳に嫌気を覚え、英訳や論文等をやりたくて、主要分野を産業機械、品質管 理、土木等の工業分野全般にシフトしました。守秘義務はありますが、新しい技術をいち早く知り、未知であり無知だった分野を翻訳によって知り得た時代だっ たように思います。

 
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<フリーランス最初のマシンはIBMのDOS/V互換機>

 
4. 転換期~家族の病気・介護と医療の現場~
取引先の合併等、トラブルがなかった訳ではないのですが、分野のシフトも円滑に行えました。仕事と同時進行で勉強していたおかげと、ITの合間にポストエディットの仕事をしていたからです。全文書き直すという非効率的な作業でしたが、分野を問わず日英・英日とも「お金をいただいて出来る勉強」と割り切って 取り扱っていたので、仕事にブランクは発生しませんでした。
大きな転換期は、家族が病に倒れたとき突如と訪れました。母親が救急車で運ばれた救急病院で血液の病気と診断され、転院はしましたが、約1年半、毎日病院に通いました。そこで医療の現場で様々な問題に直面しました。その間、ICUに1ヶ月近く、そして個室に移ってからは院内感染が発覚し、毎日が山場のような修羅場でしたが、不思議なことに私はずっと翻訳を続けていました。もちろん、一度は手つかずの手持ち分を翻訳会社に相談させていただいたのですが、少しばかり納期を延長して下さることになったので、朝5時台の始発で他都市の病院に向かい、早くて夜7時、遅いと深夜に帰る毎日の中で、翻訳は私の強い味方でもあったように思います。
医師の対応に不審を抱いていた私は、結局、母親を広島市に連れてきて同居しながら通院させることにしました。6年くらい経ったのでしょうか。
面談を兼ねて最初にお会いした血液内科のK医師は、いきなり「この病気について説明してみなさい」と私に直球をぶつけてきました。前の病院では、肝心の主治医は十分な説明も対処もなかったので、一生懸命調べていたことをお話したところ、「あなたは医療従事者ですか。医者でもそこまで知らない者もいるよ」とお褒めの言葉をいただきました。それから、K医師は急に親身な態度で病状や今後の治療についても語って下さいました。後から伝え聞くところによると、ご自身のお母様を白血病で亡くされて血液内科医を志されたというK医師は、病気を治すには経済的負担はもちろん、家族の愛情と理解が大切と考えられていたようです。
検査の結果、母親の病名は元の病院で告知された病気とは違っており、K医師とは別の医師が主治医となりましたが、以降、現場で命を救うための精鋭医師達の奮闘ぶりを目にすることとなりました。
入院時には、機械の近くでスマホもPCも使えず、生理学や臨床の本を読みました。もともと、医薬翻訳者とは名乗っていませんが、医療機器の他にも医学論文等手がけていたこともあり、こんな環境の中で、医薬翻訳への参入を考えるようになったのです。


5. どこに向かうのか~将来に向けた取り組み~
長い介護生活の中では、「現状維持」が第一でした。「とにかく止めないこと」が大切で、処理量は落としたものの、「雨の日も風の日も」翻訳を続けてきまし た。「どうせ時間がないから」とSNSには手を出せず、一方通行で翻訳クラスの方々の情報を得ていました。でも、母親の通院を在宅医療に切り替え、 IJETへの参加を契機として、今ではTwitterの他、FBとブログまでやっています。翻訳者さんたちの棲み分けがあるのか、思わぬところに思わぬ優秀な翻訳者さんグループがあるもので、色んなルートで志を分かち合える方々と知り合うことができました。親の危篤時にも休まなかった私が、今年は思い切って1週間程度ダウンタイムを取り、環境整備等でできていない諸々や、医療従事者向けPASORAMAやノートPCの購入等、送れていたto doの消化に取り組みました。新しい医療翻訳の勉強も始めました。
「時間は作り出すもの」ということで、先頃、FBの勉強会「十人十色」では、 「セルフ・マネジメント」という内容で「スケジュール・タスク管理」と「時間管理」についてプレゼンさせていただきました。また、7月からは新聞社主催の文化講座で「産業翻訳」入門のような内容で、授業をする予定があります。長い眠りから覚めて、ちょっと攻めてみようかなと思っています。
が、私の最終目標は、医療水準が高い一方、癌や難病を対象とした革新的医薬品の創出が遅れている日本で、私の友人を含め、治療や新薬を待っている人を一人でも多く救える一端を担う業務としての翻訳を考えています。私は医薬ではまだ新人なので、どの部分に参画できるのか分かりません。私には、自分の名前が入った本を出したいといった夢はありません。研究と治験の軸が国内に留まり、再生医療や個別化医療への対応を進める医療イノベーションの展開に翻訳者として少しでも関われたら、大学受験前の「英語を使った国際業務」の夢が叶うような気がしてなりません。

実は、今日は誕生日。自分を振り返る良い機会となり、この場を与えて下さった齊藤貴昭氏に感謝申し上げると同時に、拙文を読んで下さった皆さま、本当に有り難うございました。


 

コラムオーナー

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齊藤 貴昭
(Terry Saito)

 
電子機器メーカーにて開発/製造から市場までの品質管理に長年従事。5年間の米国赴任から帰国後、社内通訳・翻訳者を6年間経験。2007年から翻訳コーディネータ兼翻訳者として従事。「翻訳者SNSコーディネータ」として業界活動に精を出す。ポタリングが趣味。甘いもの好き。TwitterやBlog「翻訳横丁の裏路地」にて翻訳に関する情報発信をしています。

■Twitter: terrysaito
■Blog: http://terrysaito.com




 

MISSION STATEMENT

「翻訳横丁の表通り」には色々な人々が往来するようになりました。このコーナーでは、翻訳者さん達に「翻訳横丁の表通り」に出店して頂き、自身が持つ翻訳への「こだわり」を記事にして頂きます。「想い」であったり「ツール」であったり、「翻訳方法」であったり「将来の夢」であったり、何が飛び出るかは執筆者の翻訳への「こだわり」次第。ちょっと立ち寄って、覗いていきませんか?