イベント報告

2016/07/08

杜の都でIJET

報告者:高橋聡(JTF理事)
 
東日本大震災の発生から5年以上が過ぎた東北の地で、IJET-27仙台が開催された。

主催者は日本翻訳者協会(Japan Association of Translators、JAT)。翻訳業界の団体だが、会員がすべて個人翻訳者である点がJTFとは大きく異なる。そのJATが毎年開催している翻訳者向けのイベントがIJET(International Japanese-English Translation Conference、英日・日英翻訳国際会議)。会員の多くが海外在住ということもあって、日本と海外で交互に開催されており、近年ではIJET-26がイギリスのヨーク、IJET-25が東京、IJET-24がハワイ、IJET-23が広島で開催されている。当ジャーナルでも、このうちIJET-23についてはイベント報告が掲載されている(http://journal.jtf.jp/eventreport/id=123)。また、JTF翻訳祭とほぼ同数を集め、個人翻訳者が集まるイベントとしては国内最大規模となったIJET-25のときには、特集記事が組まれた(http://journal.jtf.jp/273/)。

同じ翻訳者団体のイベントといっても、構成メンバーの違いを反映して、雰囲気がまったく違うところがおもしろい。IJETは2日間にわたって行われ、1日目の夕方にはネットワーキングディナー(交流パーティー)があるほか、前日の夜には前夜祭もある。会期中の昼間にはもちろん多彩なセミナーが開かれるのだが、世界中からメンバーが集まるということで、会員どうしのネットワーキングの場という性格も強い。みんな、年に一度のお祭り騒ぎという雰囲気で集まってくる。
 

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IJET-27仙台は、6月18日(土)・19日(日)の両日、仙台国際センターで開かれた。
仙台駅から地下鉄東西線で3駅というロケーションだが、この東西線は2015年12月に開通したばかり。仙台の復興に一役買った事業なのだそうだ。

初日は、5年前にこの地で亡くなった方々を哀悼する1分間の黙祷で始まった。
ついで、実行委員長リサ・ヒューさんの挨拶で開幕。リサさんは、昨年のJTF関西セミナーにもご登壇いただいた、いつもエネルギッシュな女性だ(http://bit.ly/29culrh)。その彼女が、いつもとは違う、ごく穏やかな口調で語り出したのが、とても印象的だった。

And yet, despite all, Tohoku showed the world its strength and resilience.
という力強い一文。そこに関わったJATメンバーも少なくないのだそうだ。
"recovery, rebuilding, reinvention, renewal, retooling..."
こういうレトリックをさりげなく決められるところも、英文スピーチならではの見事さだった。
 

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続く基調講演(http://bit.ly/294mKHx)は、個人的にも楽しみにしていたコンテンツで、その期待はまったく裏切られなかった。スピーカーは、東北で「シェイクスピア・カンパニー」という劇団を主宰する下館和巳教授。シェイクスピアの戯曲をみずから東北弁に訳し(時代や設定も大胆に翻案)、主宰する劇団で上演している。同劇団は1992年創設と長い歴史を持つが、特に3.11以降は東北各地を巡り、被災した人々の生活語で娯楽を届けるという活動を行っている。翻訳と復興。東北の地でIJETを開催するにあたり、これ以上にふさわしいコンテンツはないだろう。

比較演劇学を専門とする下館教授が、こうした活動をライフワークとしている背後には、「標準語には、翻訳を受け入れてきた歴史があるが、方言にはその歴史がない」という思いがある。もちろん、単に方言への翻訳が珍しいだけではなく、翻訳者として確固たる基盤をお持ちだ。たとえば、『ハムレット』の、というよりシェイクスピア作品のなかでも特に有名な例の、To be, or not to be: that is the question.というセリフは、教授の翻訳では「すっかすねがだ、なじょすっぺ」となるのだが、そこにもきちんと根拠がある。それは、このフレーズがfeminine endingだからだという。英語の詩歌には必ず強弱のリズムがある。その「弱」で終わることをそう呼ぶ。このセリフでは、最後のques・tionが、第1音節にアクセントを持つので「弱」で終わっている。ところが、このセリフの歴代の翻訳---50種類を超えるそうだ---を見てみると、前半"To be, or not to be"についてはいろいろと工夫があるが、最後はどれも「問題だ」、「疑問だ」のような漢語で終わっている。これはfeminine endingに合わないのではないか。ここは、ハムレットの弱い心が吐露された場面であり、このセリフの終わり方はむしろ、めそめそくよくよしたような語感になるのではないか---。そう考えた末に、「なじょすっぺ」という、なんとも情けない、頼りない訳に行き着いたのだそうだ。

下館教授ご自身は役者ではないが、劇団では演出にもあたっているので、当然ながら芝居っ気はたっぷりおありになる。そのため、基調講演はパフォーマンスとしてもとても巧みだった。

基調講演の後半では、実際にシェイクスピア・カンパニーのメンバーが登場し、『新ベニスの商人』、『奥州幕末の破無礼』(ハムレット)などの一部を実際に演じてくれた。セリフは半分くらいしか聞き取れないが、それでも十分に楽しめる。今回は別の場面だった『恐山の播部蘇』(マクベス)などは、例の三魔女が恐山のイタコになるというのだから、これはぜひ見てみたいと思った。

下館教授や劇団員のみなさんとは、この後にもセッションのひとつでご一緒し、交流パーティーでもお話しできたが、演劇に対する熱い思いと地元に対するごく自然な敬愛を、たっぷりのユーモアにくるんで人に伝えようとする方たちだった。翻訳・言葉を媒介にして、各地でこういう方たちにお会いできるのも、IJETならではだろう。

基調講演が終わると、土曜の午後は5トラック×2コマ、日曜は6トラック×4コマで合計34ものセッションが開催される。以下、報告者が参加したセッションの一部について紹介しておく。

『日本辞典』Dictionary of Japan その内容と市場性

講演者は森口稔氏。『基礎からわかる日本語表現法』などを執筆する一方、私たちも日ごろからお世話になっている「ウィズダム英和辞典」や「ジーニアス英和辞典第5版」などの辞書の執筆・校閲にも携わっている。その氏が現在執筆中なのが仮称『日本辞典』。日本の歴史や人物、文化など約9,000項目の収録をめざしている。既存の類書をたくさん紹介し、それぞれどんな特徴があるか、どんな点がもの足りないかを分析したうえで、氏の執筆ではどんな記述を心がけているかなどまで説明してくれたので、辞書研究の事例としてたいへんおもしろかった。

東日本大震災の被害と教訓

翻訳とは関係ないが、やはり避けて通れない話題だろう。実は、17日は石巻まで足を伸ばしたのだが(基本的には個人的な趣味で)、街のあちらこちらが未だ復興工事なかばという状態だった。
 

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Teaching translations (Panel Discussion)

もちろん、一朝一夕で役に立つ情報が得られたわけではない。だが、翻訳教育で必要なものとしてFeedbackとMindsetのふたつが挙げられたのは、なかば当然と思いつつ、やはり重要なのだと再認識させられた。特に、Growth Mindsetを「しなやか」、Fixed Mindsetを「こちこち」と表現していたのは、さすがにただの「英語教育」ではなく「翻訳教育」のセッションらしいところだった。