十印五十年史・第一回「十印創業」

2013/03/08

それは1台の中古タイプライターからはじまった…
 
十印創業
 

 十印の創業者、勝田美保子が昔読んだ本に、歯を一本抜いた後の虚無感からふと出家を思い立った男の話があった。倉田百三の作である。この話は勝田に強い印象を残し、彼女が十印の五十年の歴史を遡って創業期の話をする際には、たびたび引き合いに出される。
 ほんの些細なことが人の運命を変えてしまうことがあるのだという。
  1927年に東京都文京区で生を受けた勝田が、十印の前身である「新橋タイプセンター」を立ち上げたのは35歳の頃。東京オリンピックの一年前、池田勇人 内閣の所得倍増計画策定から三年後にあたる、1963年のことだ。「あの頃は日本全体がどんどん発展していく予感にあふれ、活気と熱気が充満していた」と 勝田は当時を思い返す。
 
1959(昭和34)年の新橋駅西口広場

  時代をさらに遡って1948年、勝田は日本女子専門学校(現・昭和女子大学)の英文科を卒業した。英語を学ぶきっかけの一つに銀行員であった父の影響が あった。「これからの日本は必ず英語が必要になるから勉強しなさい」というアドバイスを受け、必死になって勉強したという。大学二年のときは英語劇の主役 も務めた。
 卒業後は都内の公立中学校で英語教師の職に就いた。女性の教師がまだ珍しかった時代ということもあり、生徒とは親しく接することがで き仕事は楽しかった。ただ勝田は漠然とした不安を感じていた。学校、教師の世界というのは社会から隔絶されているように思われる。日々の仕事は充実してい るのだが、このままだと自分がどんどん社会音痴、世間音痴になっていくのではないかという感覚があった。
 ある日、英語のスピーチコンテストに出場することになった生徒のレッスンのためにネイティブスピーカーを友人の伝で探した。レッスンを重ねるうちに懇意になったその人からのプロポーズを受け、結婚を決意。五年間勤めた教職を離れ、家庭に入った。
  娘を一人授かり、子育てに専念することになるのだが、娘の成長に伴い日々の生活が次第に安定してくると、自分の将来に対する不安がまた勝田を捉えた。生活 が退屈に感じられるようになり、このまま社会から取り残されて自分の人生は終わるのだろうかと考えると焦燥感を覚えたという。先述の日本の社会全体が活気 にあふれていたという時代背景も、勝田が家庭の中で感じていた疎外感と無関係ではないだろう。専業主婦として迎えた八年目、勝田は離婚した。
 小学校に上がる一人娘は自分が引き取るつもりだったのだが、夫も親権を主張した。裁判に発展したが、男女間の経済力に大きな差があった当時のこと、親権裁判では男性が絶対的に優位であった。娘は勝田の手元を離れ、高校に入学する歳になるまで勝田と暮らすことはなかった。
 
1972(昭和47)年の新橋駅西口

  離婚と聞いた父は勝田に家に戻るよう勧めたが、勝田は働きに出ることを望んでいた。だが手に職というものがない。唯一経験のある教師の仕事に戻る気はな かった。当時の公務員は復職が難しかったこともあるが、勝田にとって学校の世界は実社会から切り離されたぬるま湯のように感じられたからだ。
 勝 田が選んだのはタイピストとして職を探すという道だった。女性の社会進出の窓口として一般的な職業であったし、タイプライターは学生の頃に少しだけ触った 記憶もある。ただそれだけの理由だった。そうしてタイピスト養成学校に通い始めた矢先、思いがけない話が舞い込んでくる。
 父親の知り合いの消火 器会社の社長から、新橋にある事務所を無料でいいから使ってくれという申し出を受けたのだ。新橋では大きなオフィスビルを建てるための区画整理が行われて おり、その消火器会社はすでに別の事務所に引っ越していたのだが、誰かがその場にいないと立ち退き料をもらえない。だから留守番を頼みたいという事情だっ た。特にオフィスが必要だったわけではないが、新橋の駅近くで学校にも通いやすい立地と、なにより無料ということで断る理由もなく、その場所を使用するこ とになった。
 さっそく知り合いの事務機屋の人から中古のタイプライター―オンボロタイプと勝田は呼ぶ―を調達し練習を始めるのだが、事務所の持 ち主である消火器会社の社長の半分冗談とも取れる言葉が勝田の背中をもう一押しすることになる。「どうせタイプを覚えたら仕事を始めるのだろう。それなら 今から看板でも掛けたらいい」。そうして1963年の3月、「新橋タイプセンター」という看板を掲げることになった。
 五十年後の今日、勝田に「創業時にはどのような会社にしようと考えていましたか」と問うと「会社にしようなんて考えていなかった」と答え、屈託なく笑う。当時の勝田の想像を超え、新橋タイプセンター、そして十印はここを起点として大きく発展していくことになる。
  地の利があったのだろう。看板を出すとすぐに原稿を持ち込んでくるお客さんが現れた。それも次から次にだ。しかし勝田自身はまだタイプの練習中であり、満 足に打てるようなレベルではない。どう処理してよいものやら検討もつかない。それでも引き受けるのが彼女のやり方だった。「とにかく引き受けてしまえば何 とかなると思う性格」と自分のことを語る。
 勝田がとったのは近所のタイプ屋にそのまま原稿を持ち込むという裏技とも呼べそうな方法だった。それ でも利益を出すことができた。自分では一枚も打たないのだが、舞い込んでくる原稿をタイプ屋に依頼してさばくという仕事はみるみる忙しくなり、学校に行く ヒマがなくなってしまったという。
 しばらくして、知人の紹介から大量のタイプの仕事が入った。いつもお願いいていた烏森のタイプ屋ではとても処 理しきれない分量だ。天性の楽天主義で後先を深く考えることなく引き受けた勝田は対処に困った。その時思い出したのは、外務省には二十数人のタイピストが 常時おり、忙しいときばかりではない、という話だった。さっそくお願いしに行くと、原稿はあっという間に仕上がり、それも報酬はかなり安く抑えることがで きた。それで得た収入を元手に、タイピストを一人雇うことにした。
 勝田が自身について述べた言葉をもう一つ紹介すると、彼女は「約束を守らない と居心地が悪い」のだと言う。「必ずやればできると思っているし、一度引き受けた仕事は、どんなことがあっても、態勢を整えて何が何でもやってしまう」と 語る。そしてこれは十印の歴史に通底することなのだが、勝田の周りには不思議と優秀な人材が集まる。その時雇ったタイピストも、「とにかくタイプを打てる 人ならば」と声をかけた人物だったが、期待を上回る高度な技術を持っていた。「勝田さんのところは早くて間違いがない」。このような評判がたち始めるまで さほど時間はかからなかった。
 
港区新橋 2-6 1986年2月2日

  創業から三ヶ月目に、国際会議の翻訳をやらないかという話を受けた。もちろん手がけたことのない仕事だ。ここでも勝田の行動原理は明快だった。「人がやれ ることならできないことはない」、「やったことがある仕事なんて元々なかったのだから、仕事を続けていくならできないことをやるしかない」。だが、この仕 事はとても簡単なものではなかった。国際会議が開かれる音楽大学まで原稿を取りに行ってみると、待っていたのはスーツケース丸一つ分ほどの紙の束。それを 数ヶ国語に翻訳するばかりでなく、タイプし、編集し、印刷し、製本までして納品するという仕事である。持ち帰ってはみたものの、途方にくれた。
  最初に目をつけたのは大学の先生だった。専門的な翻訳家が一般的ではなかった時代に、外国語が得意な人を探そうとすれば選択肢は限られていた。方々の大学 を訪ね、それぞれの言語を得意とする教授をかき集めて依頼した。大学の先生ならば問題なくできるだろうと思っていたが、この考えは安易であった。思うよう に原稿が仕上がってこないのだ。「プライドがあるゆえ完璧主義の方が多かったのでしょう」と彼女は思い出を語る。この仕事はなんとしても国際会議が開催さ れる日までに終わらせなくてはならない。悠長に待っているわけにはいかなかった。
 勝田は原稿を取り返しに行き、専門の翻訳者探しに奔走した。 やっとのことで見つけ出した翻訳家たちはやはり専業とあって仕事が早い。だが、納期はすでに迫っていた。翻訳、タイピングは何とか終わらすことができた が、もはや印刷から製本までを外注できる時間の余裕はなくなっていた。自分のもとには英文のタイピストが一人いるだけ。ノウハウもないし、絶対的に人手が 足りない。
 繰り返しになるが、勝田は人材に恵まれている。それだけでなく、運にも恵まれている。勝田の窮地には、その人柄に吸い寄せられるように必ずどこからか助っ人が現れるのだ。
  まず事務所の持ち主である消火器会社の社長の知人から救いの手が差し伸べられた。一緒に食事をする機会があり、その際に今抱えている仕事のことを話したと ころ、なんとその翌日に輪転機が事務所に届いた。奇跡としか言いようがなくびっくりしたが、これだけでどうにかなるというわけではない。輪転機は手に入っ ても、勝田はそんなものを操作したことなどなかった。
 次なる奇跡はオンボロタイプを売ってくれた事務機屋からもたらされた。そこの営業担当が印 刷・製本のやり方を知っていて助けてくれたのだ。しかしどうしょうもなく人手が足りない。見かねた事務機屋の知り合いが、計八名を手伝いとして寄こした。 その八名はそれぞれに技術を持っており、版下の製作から編集、印刷まで皆で徹夜して懸命に作業した。「私はといえば外に出て飲み物を買ったりするようなこ としかできなかったので、そういったサービスを一生懸命してました」と勝田は笑って言う。創業から一貫して、彼女はコーディネーター型の経営者であった。
  こうして、国際会議の冊子を期日までに会場である上野文化会館に納めることができた。半年以上に渡ったこのプロジェクトから得たものは大きかった。まずそ の時の八人が社員として勝田のもとに残ることになった。そして得られた収入は彼らを向こう半年は十分に養っていけるだけの額であった。その資金を元手に 1964年7月、「新橋タイプセンター」は「十印」という株式会社となり、本格的に動き始めることになる。
 この会社の創業期において特筆すべき 点は、創始者である勝田が独自の技術、ノウハウといったものを持っていなかったことである。創業経営者の多くは、自身の技術なりアイデアなりを売りにして 事業を立ち上げるのだが、この会社は違った。必然的に十印は顧客のニーズによりそう形で成長していく道をたどることになる。このDNAは現社長である渡辺 麻呂の「十印は常にお客様にとってのベストを考えるということを大命題にしてきた。それはこれからも変わらない」という言葉にも深く刻み込まれているのが 伺える。
 「運転の経験もなしに車をいじっているうち思いもかけず動きだしてしまったようで、それからは何もかも命がけで、ブレーキのかけ方も知らず冷や汗びっしょりの毎日を潜り抜けることになったのです」。これは創業を振り返っての勝田の言葉だ。
 また、彼女は「経営とは運と時流に乗ること」だと言う。時は折りしも高度経済成長期。東京オリンピックを境にして、国内の企業は次々と世界市場に飛び出していく。十印はまさに時代が求める技術集団として急成長していくのであった。
 
続く。

 次回の十印五十年史は「高度経済成長期」をお送りいたします。