オーストラリアの翻訳事情●丸岡英明

2013/01/11

オーストラリアの翻訳事情



丸岡英明


翻訳・通訳者
英⇔日、中→日、中→英翻訳、英⇔日、中⇔日通訳。豪NAATI認定資格保有(英⇔日翻訳、英→日会議通訳)。専門は特許と医薬。慶応義塾大学法学部卒。2007年まで10年間台湾に滞在。液晶部品メーカーに勤務した後、フリーランスの翻訳者・通訳者として活躍。その後、豪クイーンズランド大学にて日本語通訳・翻訳修士(MAJIT)を取得。現在は豪クイーンズランド州ブリスベン市在住。
日本翻訳者協会(JAT)、豪州通訳・翻訳者協会(AUSIT)会員。
Twitter: hmaruoka

 



「南船北馬」という言葉は、同じ中国でも北と南でずいぶん事情が違うということが語源になっています。日本と同じアジア太平洋地域でも最南端にあるオーストラ リアは、世界のビジネスの中心である欧米や東アジア諸国と地理的に距離があるため、海外の翻訳会社からはあまり注目されることもなく、世界的なマルチラン ゲージベンダー(MLV)が見向くこともほとんどないようです。オーストラリアでは、他の世界から隔絶され、比較的良好な環境が維持されてきたと言えま す。
そうは言っても、グローバル化の波は、オーストラリアへも訪れています。オーストラリアは、白豪主義から多文化主義への政策転換の中で、政府 が中心になって独自のシステムが構築され、高品質の翻訳が維持されてきました。しかし、翻訳業界で世界的に国境の概念が薄れていく中、危機感を感じている 翻訳会社や翻訳者も少なくありません。

白豪主義から多文化主義へ
シ ドニーのボタニー湾にキャプテン・クックが上陸したのが1770年、その後、1788年からイギリス人による移民が始まりました。1901年にはイギリス から独立してオーストラリア連邦が成立するのですが、その年に制定された移住制限法によって、白豪主義政策が制度化され、1960年台まで続くことになり ます。この政策を大きく転換させたのは、1972年に誕生したゴフ・ホイットラム労働党政権でした。1973年には移民法、市民憲法が改正され、白豪主義 が正式に廃止され、1975年には人種差別禁止法が制定されます。
そんな中、1977年に、連邦政府の移民省内にNational Accreditation Authority for Translators and Interpreters(NAATI)が設立されました。その後、1983年には、連邦政府だけでなく、各州の政府からも出資を受け、独立組織として再 設立され、今日に至っています。NAATI設立の当初の目的は、先住民や英語圏以外から移民などの、文化・言語面で多様な地域社会の構成員をオーストラリ ア社会の一員として受け入れるため、国内で提供される翻訳・通訳の基準を設定、維持し、普及させ、一定の基準を満たす翻訳者・通訳者の資格認定システムを 導入することでした。そのため、NAATI資格は、コミュニティ通訳・翻訳といった色彩が非常に強かったのですが、その後、試験制度に変更が重ねられ、現 在では、国際ビジネスや国際会議なども網羅した内容へと改訂されています。

NAATI試験の概要
2011 年6月30日時点で、オーストラリア先住民の言語も含め、111の言語の資格認定が行われています。認定資格は、通訳、翻訳でそれぞれ4段階に分かれてい ますが、試験で取得できるのは、翻訳ではAdvanced Translator(旧レベル4)、Professional Translator(旧レベル3)、Paraprofessional Translator(旧レベル2)の3段階、通訳ではProfessional Interpreter(旧レベル3)、Paraprofessional Interpreter(旧レベル2)の2段階です。Conference Interpreter(旧レベル4)は大学院のNAATI認定課程でしか試験を行なっておらず、Senior(旧レベル5)は業界での実績に基づき特別 に与えられる資格です。Paraprofessional Translatorは、アフリカの少数民族の言語など、特殊な言語でしか試験が行われていません。Paraprofessionalと Professionalの違いですが、Paraprofessionalは専門的ではない会話や書類の通訳・翻訳が対象となるので、実務では Professionalの資格が必要となります。
JTFのほんやく検定とは異なり、自宅で受験することはできず、会場受験のみとなっています。 試験中のインターネットへの接続は許されず、Professional Translatorの試験は手書きで行われ、電子辞書の使用にも制限があります。試験は、オーストラリア国内だけでなく、海外で受験することもできるの ですが、アジアでは、香港を含む中国、フィリピン、シンガポールにしか試験会場がありません。
Professional Translatorの試験では、英語250ワード相当の文章を2つ翻訳します。倫理問題を含め、試験時間は3時間です。点数配分は、翻訳が各45点、倫 理が10点で、翻訳は各29点以上、合計63点以上、倫理は5点以上、合計70点以上取って合格となります。Advanced Translatorの試験では、英語400ワード相当の文章を3つ翻訳する必要があり、そのうち1つは政治・外交などの分野から選ばれる必須問題となっ ています。残りの2つは、法律、経済、医薬、科学の分野から出される4つの課題から2つを選びます。朝9時から夕方5時までの8時間の翻訳時間が与えら れ、試験会場に自分のパソコンや資料を持ち込むことはできますが、試験中にインターネットに接続することはできません。5つの課題のトピックは1週間前に 発表になります。各問70%以上、合計で80%以上の点数を取ると合格になります。
2010年度には、1468人が新たにNAATIの資格を取得 しました。うち、70%が大学などの翻訳・通訳コースの卒業試験の点数によって、残りの30%がNAATIの試験を直接受験することによって、NAATI の資格を取得しています。NAATIは受験者数を発表していないのですが、2010年度には試験が1902回行われ、440人の合格者が出ているので、そ れぞれの試験で受験者が1人だったと仮定すると、合格率は23%の計算になります。旧レベル4、レベル5になると、全言語合計でConference Interpreterが2人、Conference Interpreter(Senior)が1人、Advanced Translatorが2人、Advanced Translator(Senior)が1人しか合格者がおらず、さらに狭き門となっています。ちなみに、2011年のJTFほんやく検定のデータを見て みると、1345人が受験し、432人が合格(合格率32%)しており、うち1級の合格者は英日が9名、日英が5名となっています。

NAATI資格の更新
NAATI では、2007年の合格者から資格の更新(Revalidation)の制度を導入しています。2006年までにNAATI資格を取得した人は資格が無期 限だったのですが、2007年以降に取得した人は、3年毎に更新が必要になりました。実際には、準備が整わず、2年半延長され、ようやく2012年7月か ら更新作業が始まりました。更新を行うには、実績(翻訳の場合は翻訳したワード数、通訳の場合は受けた仕事の数)と、職業倫理、言語能力の維持、翻訳・通 訳スキルの向上などの点数を計算し、提出する必要があります。2006年までに資格を取得した人は、更新を行うかどうかは個人の自由とされているのです が、実際には更新する人はほとんどいないようです。そのため不公平感が生まれていますが、その点を含め、今後どうなるのかは、もう少し様子を見る必要があ るでしょう。

業界団体
オー ストラリアにも翻訳・通訳の業界団体があります。The Australian Institute of Interpreters and Translators(AUSIT)という団体で、約800人の会員がおり、うち600人近くがNAATIの有資格者(正規会員)です。NAATIの資 格がない人でも会員になれるのですが、準会員(Associate)として扱われます。法人会員の枠はなく、すべて個人会員なので、日本の日本翻訳者協会 (JAT)に性格が似ているといえます。JTFのような法人会員を中心とした団体を作ろうという話もあるようなのですが、なかなか実現しないようです。 AUSITでは、1995年に行動規範(Code of Ethics)を制定しており、NAATI制度にも取り入れられ、NAATI試験の倫理の問題はAUSITの倫理規範に則り回答することが求められていま す。この倫理規範は現在見直しが行われています。

昨今の状況
オー ストラリアでは、国内の政府機関に提出する翻訳文書は、NAATI資格を有する翻訳者が翻訳し、押印することが原則として要求されます。翻訳会社でも、登 録の条件としてNAATI資格を有することとされていることが多く、NAATI有資格者の場合にはトライアルが免除され、履歴書の提出だけで登録される ケースがほとんどです。そのため、オーストラリアでは、翻訳への参入が難しく、高品質な翻訳が保証されてきました。
しかし逆に、オーストラリアの 翻訳業界はNAATIの資格制度を中心に発展してきたために個人の力が強く、また欧米や日本に比べて国内の市場規模が小さいこともあり、翻訳会社というも のがあまり発展しませんでした。翻訳会社と称しているところでも、自宅をオフィスにした個人経営がほとんどで、社員を雇って事務所を構え、ある程度の規模 の経営を行なっている会社は、数えるほどしかありません。こうしたごく少数の翻訳会社も、対象としている顧客はオーストラリア国内の政府や企業、個人であ り、海外に進出している企業はほとんどないと言えます。
企業や政府は、翻訳会社に依頼するなり、NAATIのディレクトリー(http://www.naati.com.au) を見て訳者を直接探すなりして、翻訳を発注してきましたが、中には海外のMLVに発注したり、NAATI資格を謳っていない国内の翻訳会社に発注するケー スも中にはあるようです。NAATI資格を謳っている会社でさえも、海外の無資格の訳者に下訳をさせてから、NAATI有資格者にチェックさせて納品する などというところも最近では出てきているようです。
最近も、2012年10月に発表された、ギラード首相の「アジアの世紀におけるオーストラリ ア」白書のアジア言語への翻訳で、NAATI認定サービスを利用したにもかかわらず、中国語訳が非常に低品質であることが新聞の記事になりました。実際に はNAATI認定サービスというものは存在せず、NAATIは個人を認定するものなので、おそらくNAATI有資格者を使ったサービスを提供していると公 言しているエージェントが格安のレートと短納期で受注し、安値で下請けに出したものと思われます。日本語に至っては、11月末時点で未だに 「translation forthcoming」と書かれているだけで、訳文すら存在しません。アジア諸国とのつながりを強化することを宣言した首相のこの白書でさえこのような 状態では、「アジアの世紀を進むためのオーストラリアのロードマップ」などというものも、絵に描いた餅のようなものでしかありません。
オーストラ リアでも価格破壊が起こりつつあると言えますが、その背景にはオーストラリアドル高の影響があります。資源ブームのため、オーストラリア経済は2007年 以降の世界金融危機の影響をあまり受けなかったのですが、ドルやユーロに対してオーストラリアドルが高くなりすぎたため、特に欧州言語で仕事がどんどん海 外に流れているようです。アジア言語も同様で、シンガポールや香港、中国などに拠点をもつ大手MLVが、オーストラリアの多国籍企業に積極的にアプローチ しています。
翻訳料金の価格破壊は、欧米や日本では数年前から顕著になってきましたが、オーストラリアはやや遅く、2年ほど前から影響が出始めた ようです。個人翻訳者はそれほど影響を受けていないようですが、エージェントの料金は、2年前の3分の2まで下がったとも言われています。それでも、日本 や欧米と比較すると、オーストラリアの翻訳会社のレートは、まだまだ高水準を維持していると言えます。これには、翻訳・通訳のプロ=NAATI資格者とい う考えがオーストラリア国内では広く浸透していることもあるのかもしれません。政府機関の中には、NAATIの資格のレベルごとにレートを設定し、高品質 の翻訳を提供できる有資格者には、高い報酬を提供していこうという動きもあるようです。
どの業界でも、資格の制度があればそれですべてうまくいく ということはありえません。その制度をいかにして活用していくかが重要になってきます。そのためには、ユーザーである政府機関、企業、個人などに対して、 NAATI、翻訳会社、そしてNAATI有資格者が、常に啓蒙活動を行なっていくことが大切です。

 



今後の展望
翻 訳業界では、世界中の翻訳者が国際競争に晒される中、レートが下がり、格安翻訳などと称するものまで登場しています。品質よりも価格を重要視する顧客がい て、それに対応する業者が存在する限り、格安サービスがなくなることはないでしょう。機械翻訳+プレ/ポストエディティングという選択肢も現れてきてお り、独英、蘭英などのゲルマン語派間ではかなり普及し始めているようです。オーストラリアでは、海外の業者を中心とした格安サービスや機械翻訳+PEと、 NAATIの制度に支えられた高品質のサービスとの両極化が進んでいるようです。
航空業界では格安航空会社が日本でも話題になっていますが、翻訳 業界も、格安で簡素化されたサービスを提供する業者と、エコノミーおよびプレミアムのサービスを提供する業者とに、はっきりと分かれていくのかもしれませ ん。2012年に日本の国内線でもサービスを提供し始めたジェットスター航空は、オーストラリアのカンタス航空の子会社で、日本国内では日本航空などとの 共同出資によって運航されています。カンタスや日本航空は、親会社でこれまで通りの質の高いサービスを維持しながら、子会社によって格安のサービスを提供 しています。格安航空会社は、サービスのレベルが低く、遅延やキャンセルが多いために、休暇などで利用する人はいても、出張などのビジネスの利用では敬遠 されています。
 

ま さに「南船北馬」で、格安航空会社のおかげで、いままで飛行機を利用することがなかった人でも気軽に飛行機を利用できるようになりましたが、従来型のレガ シー・キャリアのビジネスクラスやファーストクラスを選択する顧客も、これまでと同様に存在しています。翻訳でも同様に、格安サービスのニーズが新たに生 まれても、それを理由に、高品質の細やかな対応をそれに見合った価格で提供する一流の翻訳会社・翻訳者へのニーズがなくなるとは思えません。目的に合わせ てサービスレベルを選択可能な昨今の航空業界のような業態は、翻訳業界の今後のあり方の一つの可能性を示唆しているのかもしれません。自分がどのような サービスを提供したいのか、していくべきと考えるのか、それを決めるのはサービスを提供する業者自身であり、翻訳者自身です。一番よくないのは、今までと 同じ高レベルのサービスを提供しているにもかかわらず、料金を下げてしまうことです。拠点が海外にあろうが、日本にあろうが、低価格化という流れに身を任 せるのではなく、業界の中で自分の立ち位置がどこにあるのか見据え、今後に向けての戦略をしっかりと立てていくべき時期にあるのではないでしょうか。
 

コラムオーナー

2012/05/11

上田 恵司(うえだ けいじ)

中学の時にフランス語を習って以来、語学オタクの道を歩み始めました。これまで手を付けた言語は約35言語(必ずしもマスターしたわけではありません)。これまでの職歴(PR会社、総合商社、製造業)では海外数か国(アメリカ、フランス、カメルーン)で勤務をするとともにほぼ常時社内通訳・社内翻訳の状態でした。毎日が多言語状態です。