一翻訳者の外国語遍歴●岡田信弘

2013/03/08

一翻訳者の外国語遍歴

 

 
岡田信弘

サン・フレア アカデミー 学院長
(株)サン・フレア 技監
1998 年5 月から二年半にわたって『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)に「誤訳パターン克服法」を連載 のちに『翻訳の泉』-「翻訳教室」としてサン・フレアHomepage に掲載
訳書『東京裁判資料 木戸幸一尋問調書』(1987 年)、『早わかりアインシュタインの宇宙』(2005 年、原文はドイツ語)、他に共
訳で『歴史としての戦後』(2002 年)など。
1963 年大阪府立天王寺高校卒 東京大学理学部(化学)卒、同理学系大学院博士課程中退、同人文系大学院修士課程修了(中・西アジア中世史)
1973 年より、フリーの翻訳者 多国語和訳から始めてコンピュータ・半導体特許へ
1986 年、(有)国際文化科学技術翻訳研究所(サン・フレアの前身)に勤務
主に特許明細書和訳のチェックの傍ら、社内外の翻訳者や一般向けに勉強会、セミナーを開催。特許5分野の特別養成講座PreOJT、OJT で多数の優秀な翻訳者を養成。その後、二年半の老母介護を経て、2011 年末より現職。

 

  私がフリーの翻訳者だったのは四十年前から十数年間、実案件の翻訳も十数年前から遠ざかっている。鉛筆と紙の辞書だけで翻訳していた当時のことを書いても 現役の皆さんの参考になるわけではないし書くほどの材料もない。実務翻訳の先達の方々との交友があったわけでもない。昔は翻訳者にはまともな人付き合いの できない変人が多かったと言われ、同僚のコーディネーターからもいろんな話を聞いたが、具体的内容までは覚えていない。馬鹿話でもよいかと松田さんに念を 押して原稿を引き受けたが、翻訳者の皆さんに直接役立つ話はできそうもないので、昔話でも書いて笑っていただくか。翻訳者には英語しか関心のない人もいる が、いろんな言葉に興味のある人も他の世界より多いはず。自費出版の代わりにこの紙面を借りて一翻訳者の自伝を読んでいただこう。

 ” でもしか”で始まった翻訳人生だが、”芸は身を助く”という。大学で出会った長野県出身の友人から、親戚や近所のおじさんに蔵書家がおり、そこに入り浸っ たという話をよく聞いて羨ましかった。我が家には本は十冊ほどしか。そのうちの二冊が親父の学校時代のドイツ語の本。分厚い独和辞書と、薄っぺらい初歩の 読本。どちらもいわゆる亀の子文字Fraktur。これを見つけたのが中学三年の春。何とか文字は解読したが、とても読めない。格変化などがほとんど消滅 した英語しか知らない者から見ると、ドイツ語は、二次元の世界に生きるアリが三次元の世界に放り出されたようなものだ。苦闘の挙句、降参してドイツ語の教 科書を買いに行った。大学初年級の入門書だ。これから私の外国語趣味が始まった。他人が知らないという魅力もあったが、英語というメジャーな外国語ではな くマイナーなものに走るという性情も大きかった。これは、スポーツも喧嘩も苦手で、いつも隅っこにいた子供の頃からの自分の立ち位置によるところが大きい と思う。新潟の片田舎でFENを聞きかじってアメリカに留学した友人(元閣僚)もいたのに。それでも、中学の小さな図書室で、英語の参考書を見てoxen など名詞や動詞の不規則変化を面白く思った。また、百科事典で、印欧語族やウラル=アルタイ語族、セム=ハム語族(当時の説)などを知った。膠着語や母音 調和とか。

 高校に入って、友人にガモフ全集が置いてあると、天王寺公園の大阪市立図書館に連れて行ってもらった。当時は大学の第二外国語である ドイツ語とフランス語以外の教科書はほとんどなかった。唯一、大学書林の四週間叢書が十種類ほどあったが、戦前のままの内容のものも多く、ほとんどが自習 に適した書き方がされていない。このときそこで読み通せたのはスペイン語だけだった。だから、それよりも、同時期にはまったもう一つの趣味が系図で、大名 の家系家伝を整理した白石の「藩翰譜」などを読んでメモしていた。 

  大学では第二外国語に前年から導入されたロシア語を選んだ。変化が複雑そうで文字も覚えなければならず、自習は難しそうだったからだ。駒場寮の先輩が当時 定番の教科書Potapovaのテープ(オープン・リール式)を持っていたので、夏休みまで借りっ放しで聞いた。でも、その後は飽いたのか授業は熱心でな かった。第三外国語もギリシア語やラテン語まですべて聴講したが、やはり続かなかった。中国語の長谷川良平先生は発音教授に熱心で一年経っても一行足らず の文しか学べなかったが、おかげで先日も中国人に名前を原語で言って、発音がうまいと褒められた。ただし発音できる語彙が少ないので会話は無理。一年の夏 休みは四週間叢書でフィンランド語を勉強した。これが四つ目。

 本郷に進学してからは神田に通い、アメリカのTeach Youself Booksやロシア語で書かれた教科書を買い漁った。(ドイツ語で書いた百年前のアッカド語の本も見つけた。基本語彙はアラビア語と似ている。)四週間叢 書も新版で自習しやすいものが増えてきた。こうしてヨーロッパの主要言語だけでなくアジアの諸言語にも手を付けだした。英語もロシア語も特に勉強したこと はないが、英語やロシア語で他の外国語を勉強したので、自然と身についた。しかし、当時は基礎を終えた後に読むべき教材がなかった。ドイツ語やスペイン語 の小説の対訳本を都電で通学中に読んだりしたが、小説は初心者には難しい。後から思えば、百科事典で興味のある記事を読めば力がついただろうに。この頃確 立した自習のスタイルは、一文づつ意味を理解した上で、スムースに読めるまで何回も音読する。その後、何文かまとめて通読し、それを何回か繰り返すという ものだ。ただし、わからないところがあると止まってしまう。でも読みながら構文解析をする習慣は自然に身についた。通学中の都電の中で小声でブツブツやっ ていた。品詞別の単語帳は作るが、書く練習は時間がかかるので、文字も覚えなければならない場合以外はあまりしない。とはいっても、外国語ばかりやってい たわけではなく、余暇のほんの一部だ。

 理学部に進学したが、夢中になれず成果も上がらない。学園闘争もあって随分遅くなって二十代の終わり近く に、夢中になれそうな文系に転向した。それもいきなりマスター・コースに。中央アジア、西アジアの歴史だ。準備のため、ペルシア語、トルコ語、アラビア語 を勉強し直した。紙に短文を書いて、歩きながら暗唱することも。しかし、どの言葉でも現代語と古典語の文体は違う。一人ではなかなか読み進められなかった が、ペルシア語は北大の先生の主催する夏休み数日間の院生中心の原書購読合宿に参加させてもらって読めるようになり、その後は走り読みもできるようになっ た。ただし、五六百年前の歴史文献だけ。トルコ語は、今のウズベク語の先祖に当たるチャガタイ語を英訳を参照しながら自力で読み解いた。アラビア語も中大 で聴講させてもらったが、使う機会が少なくてモノになっていない。しかし、ドクター入試に落ちた。それまではすべて単願で一発合格してきたのに、最後の試 験に初めて落ちた。良い修士論文がうまくまとまらなかったためだ。視点は悪くなかったと思うが、主な敗因は説得力のある書き方ができなかったこと。理系と 比べると、文系では完全な立証は不可能だ。だから自信を持って論を進めることができなかった。文系では自説に惚れ込むことが武器か。

  三十過ぎて今さら雇ってくれるところもなさそうだし、少し前からアルバイト代わりに始めていた翻訳で食べていくことにした。校内で昔の友人と久しぶりに 会って話しているうちに、「翻訳者を探している業者がいるが、お前できるだろ」といった話が次々に三件あって、紹介してもらったものだ。一つは官公庁中心 の個人業者、一つは特許庁勤務の友人の紹介で霞ヶ関ビルの技術情報の老舗、もう一つが今の会社だった。英語翻訳の勉強はしたことがなく、それ専門の人には 太刀打ちできないと思ったので、やる人の少ない英語以外の外国語の和訳で仕事を受けることにした。トライアルなんてもちろんなかった。それ以外に仕事先を 探したことはないが、電話帳で都内に翻訳業を名乗っているところは五百ヶ所ほどあったと思う。レートは覚えていないが、七十年代半ばの当時の胸算用では、 日に一時間仕事をすると年に百万円の収入になる計算で、飢えずに済みそうだった。弁理士という仕事があることは友人に志望者がいたので知っていたが、弁護 士の理系版かと思い込み、弁論が好きでなかった私の選択肢には入らなかった。

 
Duden 絵入り辞典、スウェーデン語版
 
 こうして最初の二三年は英語以外のいわゆる特殊語、今の言葉で言え ば多言語の和訳ばかりしていた。なさったことのある方ならおわかりのように、ドイツ語をやったことがあれば、他のゲルマンは難しくない。オリエントの他に アジア言語ではインドネシア語やモンゴル語の翻訳もあった。フランス語はそれまで独西露に比べてかなり弱かったが、仕事をする中で追いついた。フリー時代 の合計で十九ヶ国語になった。問題は辞書だ。スエーデン語の大型実用辞典が大学の図書館にあるのは知っていて利用したが、大抵の言語は対英または対露を一 二冊持っているだけだ。それも外国の辞書は嵩張る割りに中身が少なく小辞典レベルのものが多い。また独仏語でも国内でリーダーズ級の実用辞典が出てくるの はまだ先のことで、文学中心の語彙ばかりだ。対訳になっているDudenの各国語版絵入り辞典も集めた。だが特に問題なのは熟語、ご承知のように単語の組 合せだけでは意味が出てこないものが多い。頼れるものは、常識と英独仏露の辞書だけだ。どれだけのものができようか。もう時効だろうから打明け話をする と、フィンランド語の一枚ものを訳したことがある。レジャー用ボートの話だ。単語が三つ分からなかった。たしかどれも複合語。適当に繕ったが、後でクライ アントから問合せがあった。分からなかった三つのうちの二つが話が合わないとのこと。因みに、分からないところがはっきり分かる人は伸びると、後輩や教え子によく言っている。
  特殊語の翻訳者は、人が少ないのであらゆる分野のものをやらなければならない。しかも多くは外国語系の出身で、もともと実務の専門知識を持っていない。数 少ない専門系出身者は逆に、対象言語の知識が足りない。その上、専門辞書は対英のものを使わざるを得ない。英語表現に対する和訳語がまだ頭の中で集積して いなかった当時の私もそうだったが、対英辞書で数個の訳語候補が出てきて、それを英和で引くと、候補が二乗になる。三重苦だ。自分も特殊語畑出身なので、 せめて独仏だけでも学習者に技術翻訳の手引きとなる教科書を書きたいとかなり前から周囲に宣言していたが、近年の脳の老化、特にややこしいことはすぐに投 げ出したくなる最近の性向を考えると、難しそうだ。その代わり、最近は各国語版のwikipediaの充実で、専門知識の獲得と実務文の購読練習が同時に できる環境が整ってきた。専門辞書があっても技術の進歩に追いつかない中で、私も最近は特殊語術語の訳語探しなどにwikipediaを愛用している。

  駆出しの頃に業者の一人に言われたことがある。日本語が下手くそだ、美文とはいわないまでもせめて新聞くらいの読みやすい訳文にしなければと。高校までの 英語教育以外に翻訳の勉強などしたことがないから当然だ。後になって本の間から、裏紙をメモ代わりに使っていた原稿用紙の訳稿下書きが見つかることが時々 あったが、確かに下手くそだ。けれども新聞をいくら睨んでも文章がうまくなるわけはない。文章読本を読めば上手な文章が書けるようになるとも思わなかった ので、それもしなかった。けれども、この問題がずっと頭の片隅に残っていた。数年経ってからある本を目にする機会を得た。ロシア語で書かれた、科学技術文 献の英文露訳の教科書の和訳本だ。全体的に常識的なものだったが、一箇所、全文修飾の副詞がit … that構文と等価だとの話を読んで、眼を洗われる思いがした。同じ内容が別の形でも表現できるのだと。今で言う無生物主語や名詞構文などへの対応を自分 で考え始めた。

  こうして自前の文体が出来つつあった頃、やはり大学時代の友人から出版物の翻訳の話が舞い込んだ。大部のノンフィクション。出版ものだとの緊張もあって初 めの二三十枚は硬い訳文だったが、筆を進めるうちに自然な訳文が書けるようになった。一般に長いものを訳すのは翻訳能力のアップに大いに役立つ。八百枚の 大冊で、毎晩二時間ずつ半年間かかった。その後も時々出版依頼はあったが、地味なものばかりで収入源とはできず、時間のない中で受けたのは共訳や短いもの を数件だけ。代わりに友人や実務翻訳の後輩を紹介したこともある。しばらく日経ビジネスの下訳を頼まれたこともあった。どうせならジャーナリストの文体を 盗んでやろうと思ったが、ならなかった。何人かの編集者と話してみて、どの世界も人材不足に悩んでいると感じた。出版社に話を持ち込むにはコネが大事と編 集者自身も言うが、どこでも出来る人を探しているのだから、売れ筋のネタと十分な翻訳能力があれば、直接売り込むのも脈アリかと思う。もっとも、私は様々 な翻訳経験をしたが、すべてコネだった。十二年間大学に籍を置いたおかげで。

 そのうちに受注先が今の会社に絞られ、人が足りないので特許の英文 和訳をやらないかと声がかかった。たしか明細書のサンプルや手引きももらえず、自己流でやっていたと思う。数年後に、求むチェッカーで、子供等が学校に上 がるまで腰掛けのつもりで入社して、ずるずると四半世紀を過ぎた。文系に転向した時以外、私の人生はほとんど成り行き任せだ。ずっと機電系特許の和訳の チェックをしていた。同僚に特許事務所経験者で機械やコンピュータに強い人がいて、調べものの必要もなかった。チェックの仕事の中で、誤訳や表現を訂正す るとともに、知らなかった構文やうまい表現も知らず知らずに採り入れていったと思う。自覚はないが、特別の勉強はほとんどしていないし、すべて自分で気づ いたなんてことも有り得ないから。チェックをするとき、自分と比べてより正しい解釈やよりうまい表現を正当に評価できるなら、実力がどんどんついて行くは ずだ、頭の固い人は駄目だが。この頃のチェックは十分な時間が取れた。もっとも、他人に比べればずっと速く、精度も高かったはずだが。この間の経験を基盤 にして、後年、仕事がうんと増えたときも、翻訳者の実力を踏まえた時間配分で数倍の量をこなしたものだ。

 そのうち同僚に促されて、常連翻訳者と の勉強会を始めた。年に数回、土曜日に十人前後で。その中でせっかく出てきてもらうのだから何かお土産をということで、翻訳上のトピックを書いた二三枚の レジメを作る気になり、時々書き足していくうちに二三十枚になった。これは放っておくのは勿体ないが、一気に本にするのはしんどく、雑誌連載で少しずつ書 いていくなら楽かと思って、通翻に持ち込んだのが、例の「翻訳の泉」。この名前も連載中の名前も他人に付けてもらったものだ。なお、文学部転向の際に卒論 相当の論文を書いたとき、下敷きにしたロシア語論文に引き摺られて自前の発想が展開できなかったのに懲りて、自分の考えが纏まるまでは他人のものは読まな いことにしていたので、その中の知見は、既に他の方が発表しておられるものも多いにせよ、ほぼすべて自前のものである。

  英訳については、和訳を始めて数年経って英訳を勧められたが、まだ重くて断った。さらに数年経ってやっと始めたが、事情があって蜜月時代のうちに、つまり 英訳が楽しくてたまらないうちにやめてしまった。もっと経つと、これが英語として通じるのか、怖くなってくるものだ。英訳のチェックはずっと同僚が担当し ていたが、そのうち回ってくるようになった。だが、自分で訳した経験が少ないので、正解が直ちに用意できない。勢い、見覚えのない表現は疑って調べること になるが、やはり元訳が間違っていたケースと、自分がその表現を知らなかっただけというケースが半々だった。英訳を一年、英訳チェックを一二年専任でやら してくれたら、泉の英訳版も書いてやるとよく放言したものだ、記憶力も判断力も衰えてきた今は無理だが。

 ところで、一般の英文ならネーティブ並 みに書ける人は別だが、普通の日本語ネーティブなら和訳から入るのが筋だと思う。その中でさまざまな語句や表現の深い意味と働きを身に付けていく必要があ る。教え子によく言ったものだ。将来英訳をやりたいなら、和訳が終わった後で原文を英文として鑑賞しなさい、内容がよくわかっている上に、翻訳時には見え なかった英文表現の特徴も見えてくると。そして、日本文を読んで、英語の単語と構文が八割方すぐに思い浮かぶようになった段階で、英訳に乗り出すのが良い と。特許明細書の場合、書式が決まっている上に、特定の分野の仕事を継続的に受けることができるので、英訳能力の蓄積の上でも非常に有利である。何事で も、非常に狭い仕事に打ち込んで力を蓄えていけば、自然により広い仕事にも対応できるようになるものだから。高望みかもしれないが、科学技術の翻訳で美し い英文を目指すなら、定評ある学術雑誌に載っている論文を読み込むべきだと思う。そのような論文は、科学的内容だけでなく、英文表現にも厳しい注文があ り、表現の拙いものは却下され書き直しを求められるから。論文をベースにした翻訳者と、明細書しかしらない翻訳者では、英文の美しさの点で勝負にならな い。

 
書庫で見つけたサンスクリット語教科書のコピー
 
後に入手したインド版
 
 人生の折返し点を前にして、いつまでも入力ばかりでは駄目だ、これからは出力すべき年だと考えて、最後の外国語学習に入った。さすがに二十 年経つと、国内の教材も充実していた。サンスクリット語も丁寧な教材が出ている。その後にCDまでも。昔は大学図書館の書庫で戦前の外国の教科書の中から 使いやすいものを探し求めたものだ。満州語も、およそ自習には適さない、百年前にドイツ語で書かれた文法書しかなかったのに、中国から学びやすい教科書と 読本が出ていた。実は中国では文革の収まった八十年代後半から、様々な研究書が溢れ出てきた。学者たちが困難な時代を隠れてコツコツと研究を続けてきたの だろう。簡単な現代語文法と漢文の知識だけで硬い文なら読めることに気づいて、中国語の歴史や言語文化の研究書を二百冊ほども読んだ。チベットやモンゴル などの少数民族の歴史や文学の古典もたくさん出てきたので買い漁った。清代の外国事情を述べた「清職貢圖」が、満漢辞典を引き漢訳を参照しながら楽々と読 めるではないか。でも中年になってから学んだので、今はほとんど覚えていない。わずかに覚えているのは、黒龍江をSahaliyan Ula という。黒い河という意味だ。樺太をサハリンというのは、この川の河口の対岸にあったからか。因みに、樺太はモンゴル語のqara khoto黒い町か(内蒙のフフホトは青い町)。

 
清職貢図満州語版、日本国の部
 
 一昨秋、自宅のPCが壊れた頃、白水社のエクスプレス・シリーズで言語学徒の垂涎の的であるリ トアニア語とグルジア語が出たのを知って、久しぶりに外国語学習を再開した。
 

ソ連で出たグルジア語教科書 1970 年エレヴァン刊
 

グルジア語の手書き単語帳
 
CDベースなので、聞いて意味がさっと分かるようになるのが目標だ。初めての ものでも姉妹語を知っていれば丸一日で上がり。二十数カ国語まではこのペースで進んだが、次第に時間がかかるようになり、半年経って42カ国でダウン、イ ンドシナ諸語を中心に十ほど残った。インドシナ諸語は、文字もそれぞれ違う上に、中国語と同じ単音節の声調言語が多いので、発音中心に学習しなければなら ない。それにしても、分かったと思ってから一週間も経つとすっかり忘れているので、もう続きはないと思っていたら、もうすぐタミル語が出るという。そのう ちにアルメニア語、アムハラ語、シンハラ語なども出るかも。五十年若ければなあ、生まれるのが早すぎて残念。今懸案の仕事に目処がつけばまた始めたくなる かもしれない。昔から外国語学習の目的は、流暢に話すことではなく、各民族独自の古典を読めるようになることだったが、今の目標は、歌や映画のタイトルが 大体わかるようになること。各国語の音楽を聴いたり、せいぜい日常の挨拶しか聞き取れないが各国の映画を見たり、二三年前からYouTubeなどで楽しま せてもらっている。
 
10 年前の岡田信弘
 
  二十世紀末に会社がLAN導入に踏み切ったとき、私はrunで充分だと最も消極派だった。しかし、最も活用したのも私だったろう。世界の古典、名著が原書 で見られる。これ幸いと昼休みに漁った。ネーティブが吹き込んだ名作の朗読Audiobookも今なら一杯ある。当時すでにハンガリーなどでは辞典に至る までデジタル化が進んでいた。それでもインターネットのコンテンツが現在に比べて貧弱だった十年ほど前、ポーランド語医学文献の和訳の案件があった。国内 にできる人がいるとは思えなかったので自分で引き受けた。辞書は、白水社の波和辞典と、露英の技術辞典だけ。四五枚の短いものだったが、わからない術語が 十二個あった。多くが熟語であったが、ご周知のように専門の熟語は個々の単語の意味からだけではつかめないものが多い。ポーランドの医科大学などメールア ドレスの出ていた5箇所に質問のメールを出したが音沙汰なし。ふと思いついて、アメリカのポーランド人団体を当たってみたら保険関係の団体が見つかり、し かも質問に快く答えていただいた。付けてもらった英語訳はすべて文脈上ぴったりだった。後日談だが、しばらくしてインターネットで波日の医学文献の翻訳が できるという人のホームページを見つけた。高名なポーランド語の先生のご子息で医学文献の翻訳がメインだという。世間は広いものだ。

 近年はとき どき珍しい言葉の案件も扱う機会があった。ベトナム語訳の技術案件が入ってきて、ベトナム人に依頼し日本人にチェックしてもらったが、出来がわからない。 そこで、訳文のうち実質2ページほど辞書首っ引きで訳してみた。術語は英語の音訳語が多かったが、何しろ五十前に少しやっただけなので覚えていた単語は二 語だけ。それでも数時間かけて和訳して越訳が十分なものであることが確認でき、今後はお二人に安心して仕事を依頼できることが分かった。これぞ多国語品質 管理の極意。もっと凄い話もあった。タイ語の和訳で一枚もの。こちらもフランス語型の語順であることだけは知っていた。マイナー言語では専門でない様々な 内容のものを扱わなければならないので、スキっとしない訳文が上がってくることも多い。(以前に、イタリア語の和訳を大学の先生に頼んだことがあったが、 内容が技術関係でチンプンカンだったせいか、構文解析まで乱れていた。また大使館勤務の自信満々のベテランに頼んだ東欧語の訳文も、チェックすると原文が 半分しか残らない惨憺たるものだった。)この時は訳者に電話をかけて、この語はこちらにも係り得るのではないか、この語はこう言う意味もあるのではない か、など一時間かけて確認し、まともな訳文に仕上げた。つまり、言葉が分かり辞書が引ける人と、内容と書式が分かる人が組めば、どんなものでもまあ恥ずか しくない訳文ができるものだ。

 
 少し怖がっているので2ショットはありません
 
  最後に一つくらい実際に役立つことを。いや既になさっている方も多いか。好みもあるが、クラシックをかけながら仕事をすると頭が疲れにくい。フリーの頃も FM放送を掛けっ放しにしていたが、会社で数人入りの小部屋に二十歳ほど年上の先輩と席を並べていたことがあった。氏は大のクラシック・ファンで、休日に 家でレコードから編集したカセットを仕事中に流しておられた。他の同僚も特に嫌がる人はなく、傍聴させてもらっていた。ところが、氏は年に二回、二週間ほ ど休暇を取って海外旅行にいらっしゃる。当然、バックグラウンド・ミュージックは途絶える。その間、ニコチン切れのヘビー・スモーカーさながらに、落ち着 かず、すぐに身体がだるくなるのを実感した。言葉に使う脳と音楽に使う脳の部分が違うらしい。いわゆる右脳効果。翻訳で脳の一部を継続して使っている間に 音楽で別の部分が軽く刺激されると、脳の疲れが軽減されるということか。したがって、言葉のない音楽が良い。

 神経を消耗する激務に疲れ果てて、 実務はもう下りようと企んでいた矢先、一年前にアカデミーへの異動が決まった。以来、前にもまして、翻訳の学習方法や英語の特徴などに思いが及ぶことが多 いこの頃。実務に携わっていたうちはとても外に出る余裕はなかったが、この一年、始めて翻訳祭に出席したり、松田さんの紹介や仕事上で多数の連盟関係者、 翻訳者のみなさんと知り合う機会を得た。呆けが進んでお会いしたことがあるのに忘れてしまって失礼を致すことも多いでしょうが、ご寛容の上よろしくお付き 合いのほどを。翻訳会社に長年勤めているものの、四十を過ぎて始めて就職したせいか、いつまでたってもフリー気質が抜けない。さすがに会社の利益に反する 言動は控えているつもりだが、勝手な振る舞いが絶えず困った老害だ。でも後進のお役に立ちたいとの思いだけは。これで筆を擱きますが、素面で読み返せば恥 ずかしくなるような駄文を最後まで読み通してくださった方にはきっとご多幸が。頓首再拝。



 

 
編集後記 松田
 
この一年間(2012/4月~2013/3月)編集委員の末席で微力ながら活動を続けてまいりましたが、新年度より後進に道を譲って役目を辞することにいた しました。私にとって最終回の本号に、わが翻訳の師である岡田信弘さんにご登場いただくことが叶い、文字通り思い残すことなく晴れ晴れとした気持ちで役目 を終えることができます。ようやく8年目の翻訳人生において、2005年1月~10月の翻訳修行中に岡田さん直々の薫陶を受けた貴重な経験が、その後の私 の「軸足」としてしっかり定まっていることを思い返すとき、あらためて「師」と呼べる先達に巡り会えた人生の幸運に感謝する日々です。

 
皆さま、一年間のご愛読を心より感謝申し上げます。


ありがとうございました。
 

コラムオーナー

2012/05/11

松田 浩一(まつだ こういち)

横浜市在住。長年SONYに開発系エンジニアとして務め、一念発起して2004年春に早期退職し、2005年秋よりフリーランスの特許翻訳者/産業翻訳者として独立して現在に至る。 専門分野は電子・電気/通信・ネットワーク/機械系。本業の翻訳と並行して、翻訳スクール講師、ネット翻訳道場の講師、SNSの翻訳コミュニティ管理者などを兼務。元気の源は愛犬と愛猫とジムでのエクササイズ。辞書と音楽とiPhoneが大好き。Facebookとmixiで同名のコミュニティ「翻訳の泉」を主宰。

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