こだわりのない翻訳者のこだわり●中野真紀

2014/07/11

中野 真紀


 独日・英日翻訳者。石川県出身。獨協大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、海外向けマニュアルのDTPオペレーターとして勤務したのち、翻訳者を目指して渡独。1999~2002年にボン大学のドイツ語コースおよびアジア言語研究所(SOS)で ドイツ語と独日・独韓翻訳を学ぶ。帰国後フリーランスで翻訳の仕事を始め、さらに派遣社員として製薬会社の臨床部門にて翻訳関連業務を行う二足のわらじ生活を2年間続けたのち、2005年より専業翻訳者となる。JAT会員。
 


 実践的な知識も経験もないままいきなりフリーランスで翻訳の仕事を始め、手探りの数年間を経てようやく軌道に乗ったかと思えた矢先に起こった世界金融危機。仕事にも大きな影響があり、厳しい数年間をなんとか乗り越えようやく方向性を定めたつもりが、気がつけば予定とはずいぶん違う分野の仕事をこなす日々。そんな私に「翻訳へのこだわり」について語る資格があるとはとうてい思えないのですが、せっかくお声掛けいただいたので、あまりこだわらずに仕事を受けてきた翻訳者である私のささやかなこだわりについてしぼりだしてみたいと思います。
 
 もともと何の専門分野もない独日翻訳者としてスタートしたため、これまで多種多様な仕事をこなしてきました。ここ数年で割合が大きく増えてきた英日翻訳については、専門性を高めるために分野を限定しようと思ってはいるものの、ドイツ語案件をきっかけに仕事をいただくことが多いため、これまた多様な分野の依頼があります。翻訳を通していろんな世界のさまざまな知識に触れられることがこの仕事の楽しみのひとつでもあるので、依頼があればどんな分野でも、という姿勢でやってきました。
 
 こうして多分野の翻訳をするにあたって思考の枠組みとして役立っているのが、意外にも大学時代に所属していた広告研究会で学んだ、広告の「対象」、「媒体」、「コンセプト」について考えるというステップでした。翻訳をされている方にはごく基本的なことだとは思いますが、この機会に自分なりにまとめてみたいと思います。
 
 これを翻訳に応用すると、次の2つの視点から考えることができます。
1.原稿は「いつ、誰が、誰を対象に、何を目的として、何の媒体で」作成したか。
2.翻訳は「誰が、誰を対象に、何を目的として、何の媒体で」使うのか。
 
 これは、ニュース記事を書くときの基本とされる、いわゆる「5W1H」にも似ています。「媒体」の代わりに、または追加的に、「どこで」についても考える必要がある場合もあるでしょう。そして、翻訳は基本的に訳出後あまり時間をおかずに使われますので(数年寝かされることもたまにありますが)、「いつ」については通常は考えなくても良いように思います。
 
 対応分野が狭ければ狭いほど、これらはだいたい一定なので、毎回深く考える必要はないのですが、さまざまな分野の仕事を受ける場合は、翻訳を始める前、または仕事を受ける前に、まずこれをきちんと把握することが重要となります。
 
 契約書や使用説明書、Webサイトの翻訳など、1と2がほぼ同じで明確なものもありますが、最終利用者が同じでもクライアントの好みによって言葉の使い方などが変わってきますので、2の「対象」では、最終利用者とクライアントが異なる場合には、その双方について意識する必要があります。
 
 これに対し、1と2が大きく異なり、また2もそのときどきで異なるものの一例として、インタビュー音声の翻訳があります。例えば「テレビ番組で一部のみを使用する」場合と、「冊子にそのまま全文掲載する」場合とでは、仕上がりの翻訳がかなり異なってきます。前者では、どちらかというと中間利用者(ディレクターなど)の使いやすさを重視し、細かくタイムコードを付け、後で編集しやすいようにできるだけ話の流れ通りに忠実に訳していきます。一方後者では、読者の読みやすさを考え、意味やニュアンスがずれないようにしつつも冗長なくり返しなどは省き、全体の流れを見ながらすんなり読めるように訳していきます。
 
 文体の好みも含め、こうしたことは事前にクライアントに確認できれば良いのですが、エージェント経由の案件で、あまりそうしたことを気にせずに仕事を発注される担当者さんにあたると、その辺りを尋ねることができなかったり、尋ねてもわかりませんと返されてしまうことがあります。その場合は自分なりにおおまかに想像し(きっちり定めすぎると見当違いのものができあがる危険もありますので)翻訳するだけでも、全体としてゆれのないものに仕上がるように思います。
 
 さて、依頼があればどんな分野でもとはいいつつも、まったく未知の特殊な専門分野については、私なりの対応可否の判断基準があります。その第一の基準は、「クライアントの希望する期限内に私より上手に翻訳できる人が見つかりそうか否か」というものです。
 
 産業翻訳である以上、通常は何らかの目的で比較的短い期間に翻訳が必要とされます。特にドイツ語であれば翻訳者の数も限られていますので、どうしても急いで必要なのに翻訳してくれる人が見つからない、というのでは困るでしょうから、それなら微力ながらも協力してあげたいという気持ちがあるからです。
 
 見つかりそうにないと思える場合には、次の判断基準として前述の特に2を確認します。例えば専門業者向けのパンフレットにそのまま使用する(しかも翻訳をチェックできる人がいない)などと言われれば、実力不足を理由にお断りしますが、内容確認のための社内資料などであれば、当該分野および類似分野に関する自分の知識と経験を伝えた上で、それでも良ければとお受けすることも少なくありません。
 
 もちろん受けたからには、時間のある限り納得のいくまで調べます。手元に資料のない分野で時間的な余裕がない場合は特に、玉石混淆のインターネット上での調べ物が多くなりますが、その際にも、サイトの信頼性を見極めながら、参照している記事が原文なのか翻訳なのかの確認と合わせて、その記事における前述の1と2をつねに意識し、使われている用語や言い回しが今回の翻訳に使えるかどうかを判断していきます。
 
 そうしてなんとか納得のできる翻訳にまで仕上げて納品するわけですが、悪いフィードバックがなくても、やはり不安は残ります。正確で読みやすい翻訳を納品して当たり前の仕事ですから、慣れない分野に四苦八苦して仕上げても、よく頑張りましたと言われることはありません。ですから、同じクライアントから継続して声がかかり、前回と同じようにと言われたときには、とても嬉しく思うとともに本当にほっとします。そんなふうに、苦しんだり落ち込んだり小躍りしたりをくり返しつつ、いろんな世界を垣間見ることができるのを楽しみながら、また新たな分野に挑むのです。
 
 
翻訳に携わった書籍も分野はさまざま
 
 


 
 

 

コラムオーナー

齊藤 貴昭
(Terry Saito)

 
電子機器メーカーにて開発/製造から市場までの品質管理に長年従事。5年間の米国赴任から帰国後、社内通訳・翻訳者を6年間経験。2007年から翻訳コーディネータ兼翻訳者として従事。「翻訳者SNSコーディネータ」として業界活動に精を出す。ポタリングが趣味。甘いもの好き。TwitterやBlog「翻訳横丁の裏路地」にて翻訳に関する情報発信をしています。

■Twitter: terrysaito
■Blog: http://terrysaito.com




 

MISSION STATEMENT

「翻訳横丁の表通り」には色々な人々が往来するようになりました。このコーナーでは、翻訳者さん達に「翻訳横丁の表通り」に出店して頂き、自身が持つ翻訳への「こだわり」を記事にして頂きます。「想い」であったり「ツール」であったり、「翻訳方法」であったり「将来の夢」であったり、何が飛び出るかは執筆者の翻訳への「こだわり」次第。ちょっと立ち寄って、覗いていきませんか?