私にとって(の)『翻訳とは何か ― 職業としての翻訳』●水谷健介

2012/11/09

水谷 健介(みずたに けんすけ)


 
フリーランスの技術翻訳者(英語⇔日本語)。1991年に明治大学(文学部史学地理学科考古学専攻)を卒業。さらに、オランダのReinwardt Academie(博物館学修士課程)への留学や、ISPなどでの会社勤務を通じ、さまざまな挫折を味わった後、技術翻訳者になることを2002年11月に決意。2003年2月にサン・フレア アカデミー(通学科専門講座・コンピュータ英語科)を修了。2003年6月~2007年8月、㈱インターメディア(JTF会員)で社内翻訳者兼プロジェクトマネージャーを務める。2007年9月から現職。
 
医療機器、特に画像診断や放射線治療関連(CT、MRI、X線撮影、PET、超音波、リニアック、陽子線治療、PACSなど)の案件に強い。詳しくは「翻訳者ディレクトリ」を参照(http://www.translator.jp/retrieve.cgiから、登録No.「3469」で検索可)。

 


私 にとって今秋は節目の時期です。9月には、フリーランスの翻訳者として開業5周年を迎えました。また、この号が発行される頃には、翻訳で食べていくことを 決心してから10年経ちます。この間、私のバックボーンであり続けてきたのが、故山岡洋一氏の『翻訳とは何か ― 職業としての翻訳』です。今回は、この名著のうち、特に印象深く、かつ核と考えられる部分をいくつか抜粋します。そのうえで、それらにまつわる経験や考え を述べます。なお、この本の性質上、基本的には英日翻訳を前提とした話になりますので、あらかじめご承知ください。
 
 
 
◆ 「翻訳とは、原文の表面をみて、訳文を作り上げていく作業ではない。それは英文和訳<中略>であって、翻訳ではない。<中略>翻訳とは、原文の意味を読み 取り、読み取った意味を母語で表現する作業である。<中略>そして、翻訳は学び伝える仕事である。学んだ内容を伝え、伝えるために学ぶ。」(p. 100)
 
『翻訳とは何か』との邂逅は、10年半ほど前のことでした。当時の私にとって翻訳は、サラリーマンとして業務上行うことはあっ ても、メインの仕事ではありませんでした。そんな状況でなぜこの本を読みたいと思ったのか、はっきりとは思い出せません。ただ、当時は、勤務先での仕事や 立場に対する自分の不向きさを痛感し、転職を考え始めた頃でした。もし会社を辞めたらどうやって生きていこうか、大いに悩んでいました。おそらくはそんな 中で、それまでに少しでもやってきた仕事のうち、その後もやっていけそうな仕事の1つとして翻訳を意識し始めたのだと思います。私は昔から、人の知らない ことを調べて伝え、喜んでいただけると、大きな喜びを感じる類の人間です。そのため、単に原文の文字面どおりに訳すのではなく、その意味を考え、得た情報 を分かりやすく伝えるという点で、翻訳という仕事は私に打って付けではないかと思いました。(今思えば、この予想は大正解でした。)それから半年後に会社 を辞め、その翌年には、翻訳学校の修了を経て、翻訳会社への転職に成功しました。
 
 
◆「翻訳の秘訣はただひとつしかない。<中略>それは完成度の高い日本語で書くようにつとめることである。<中略>自然に原文の読みや理解が深くなり、正確になる。」(p. 108)
 
実 のところ、入社後しばらくの間は、日本語力を向上させることをさほど意識していたわけではありません。当時は、英日翻訳よりも日英翻訳への関心が強かった ためです。しかし、その会社で日英翻訳はほとんどさせてもらえませんでした。ターゲット言語を母国語とする人が翻訳すべし、という方針があったためです。 そのため、独立するまでは英日翻訳の仕事ばかりとなりましたが、適切な日本語で表現しようと努力する中で、日本語への関心が自然に高まりました。
 
そ んなある日、社長との会話で、「なぜ世間は、英語力だけでなく日本語力にも関心を向けないのだろうか」とぼやかれました。そういえば、「翻訳者ディレクト リ」の資格・特技欄でも、英検のレベルやTOEICのスコアを英語力としてアピールしている方は多いですが、日本語力を具体的にアピールしている日本人翻 訳者は案外少ないのではないでしょうか。また、私自身の日本語力について、お客様から問われたことはありません。日本人なら日本語力は問題ないはず、とい う考えからなのでしょうか。しかし、今までの仕事で遭遇した訳文(Trados必須案件で過去訳を参考にして翻訳することも多いので)の中には、日本語と して不適切な文が少なくはなかったのも確かです。
 
 
◆「翻訳者に与えられている手段は通常、ただひとつである。訳文がその手段なのだ。<中略>読み、理解するのは、読者に伝わる文章を書くためなのだ。だから、翻訳の際にもっとも重要な技術は、日本語を書く技術である。」(p. 141)
 
仕事において最も重要なアウトプット、すなわち日本語力を重視すべしと考え直した私は、フリーランスになった後、2つのことを通じて日本語力を磨き直しました。1つは、「日本語検定」(http://www.nihongokentei.jp/) への挑戦です。これは、外国籍の方を対象とする日本語能力試験ではなく、「日本語を使うすべての人のための検定」(上記Webページより)です。どんな内 容かは、上記のWebサイトで公開されている級別問題例で確認できますので、ご興味のある方はご覧ください。4年前に2級、および3年前に1級に合格しま した。もう1つは、「TC技術検定(3級:テクニカルライティング試験)」(http://www.jtca.org/certificate_exam/exam_writing_b.html) への挑戦です。これは「使用説明の作成に携わる人々だけでなく、実用文の作成に役立つ日本語作文技術を高めたいすべての方々を対象とする試験」(上記 Webページより)です。現に、「マニュアル、使用説明や技術文書などの翻訳者」(上記Webページより)が対象として想定されています。去年合格しまし た。
 
もちろん、これらの検定に合格したからといって、自分の日本語力が完成したわけではありません。それに、人間が変わり続ける以上、 言葉も変わり続けます。したがって、ブラッシュアップに終わりはありません。ただ、そのためにこういう制度を利用するのも、1つのやり方ではないかと思い ます。
 
 
私は、翻訳会社に入社以来、今に至るまで、特に医療機器の取扱説明書や関連ソフトウェアのUI(ユーザーインター フェース)テキストの翻訳に数多く携わってきました。その中で、製品作りの一部を担っているのだと自覚すること、クライアントだけでなくエンドユーザーに まで思いを馳せること、および翻訳者から見て何か改良すべき点があれば提案することを常に心がけてきました。そのため、「早い・安い」路線とは一線を画さ ざるを得ませんが、その分「うまい」路線、すなわち読みやすくかつ自然な表現を心がけた訳文作りを方針としています。
 
こういうスタンス に至ったのは、翻訳と本格的にかかわり始める前に、『翻訳とは何か』のおかげでプロとしての心構えができたからです。これからも、この本に表されている精 神に則り、ある言語の言葉を別の言語の言葉に置き換えるだけのマシンとしてではなく、良き情報メッセンジャーであるためにどう振る舞うべきかを常に考えな がら、なすべきことを1つずつなしていきたいと思います。
 
 

 
Interview

 
  • 水谷さんは、「転職し翻訳者になる」と「フリーランスになる」という、キャリアの上で大きな決断を5年ごとになさっていますね。それぞれの決断の決め手は何ですか?
 
水谷:転職は、『イヤな仕事は絶対するな! 「いのちの仕事」を見つける方法』を読み、自己分析した結果です。ちなみに、あの戸田奈津子さんのエピソードも書かれています。戸田さんでさえ、字幕翻訳を始めてから、日本語の作文教室に通っていたそうです。

 

 
フ リーランスになったのは、マネージャーよりもプレーヤーでありたいという気持ちを、どうしても抑えられなかったためです。翻訳会社での在職期間が延びるに つれて、翻訳以外の仕事がだんだん増えました。外部翻訳者からの訳文や請求書のチェック、トライアル応募への対応、クライアントとの折衝、プロジェクト管 理、後輩の指導などです。これは、サラリーマンである限り宿命かもしれません。そんな中で、多くの人を束ねて大きなビジネスに取り組む立場を目指すのも、 もちろんありでしょう。しかし、私には、たとえ経済的に不安定でも、自分の目が届く範囲内の仕事に全力を尽くす立場の方が向いていると思いました。要する に、人に翻訳させることよりも、自分で翻訳することにやりがいを感じたのです。
 
  • 社内翻訳者とフリーランスと両方経験なさっていますが、フリーになってどのようなメリットを感じますか?
 
水谷: 取引先、仕事、納期、報酬… 相手との交渉を要することも無論ありますが、基本的にはすべてを自分で決められることです。ただ、これは、特に翻訳会社で翻訳以外の仕事も経験させてもら えたからこそ味わえるのだと思います。フリーランスとして、単なる趣味ではなくビジネスとして翻訳に携わり続けるには、優れた翻訳力を備えているだけでは ダメですよね。経理や営業もそつなくこなす必要があります。あの頃、あまり面白くはなかった類の仕事を経験させてもらえたからこそ、発注者の立場や気持 ち、プロジェクトの進捗状況の管理方法、請求書の書き方、翻訳者の報酬レートなど、さまざまな実務を学べました。もしそれなしに独立していたら、程なく廃 業を余儀なくされたかもしれません。

また、基本的に1つの仕事に集中できるのもいいですね。サラリーマンなら、複数の仕事を同時に進めね ばならないのが普通のはずです。フリーランスの実態は一様ではないかもしれませんが、私の場合は、1つの仕事を進めている間、他の仕事をお断りするのが普 通です。昔から、良くも悪くも、「あれもこれも」型ではなく「あれかこれか」型の人間なので、そういう意味でも今の生活スタイルは自分に合っています。

 
  • 日本語力を磨くためにどんなことをしていますか?
 
水谷:一般分野の日本語力については、本文でご紹介したような改まった形の勉強は、今はしていません。それでも、時事通信社(日本語検定の協賛企業)のWebサイト(http://www.jiji.com/) で公開されている「きょうの日本語検定」は、仕事を始める前のウォーミングアップとして毎日見ています。解答を間違えることも未だにありますが(苦笑)、 その場合はそのメモをとり、後日見直して再学習しています。ほか、新聞やWebサイトで分からない言葉や興味を抱いた言葉を、辞書やWebで調べて確認す ることはよくあります。特別なことはないでしょうが、こういうことの1つ1つが、翻訳者としての血や肉になっていくと信じています。

専門 分野の日本語力については、医療機器やITに関する、雑誌やWebサイトに目を通すことで、当該分野での言い回しに少しでも慣れるようにしています。ま た、こういう文書や仕事を通じて知った文書を、PDFファイルに変換し、PCに少しずつ蓄積しています。こうしてデータベース化しておけば、簡単に検索で きるので、その後の翻訳で訳文表現の参考になることが少なからずあります。

 
  • 「翻訳者ディレクトリ」を見ましたが、博物館の学芸員の資格をお持ちですよね?翻訳と学芸員の仕事との共通点はありますか?
 
水谷:資格はあっても、実際に博物館で勤めたことは皆無に等しいので… ただ、考えてみれば、特定のテーマについて調べ、情報を分析・整理し、人に伝えるというプロセスは、翻訳や、博物館での研究・展示などの仕事に限らず、どこの世界にも通ずることではないかと思います。

 
  • 医療機器分野の翻訳に深くかかわるようになったのは、なぜですか?
 
水谷: 実は、翻訳会社での業務命令がきっかけです。プロフィールでお分かりでしょうが、それまでまったく縁のなかった分野なので、最初はあまり面白くはありませ んでした。当時は、知識も実務経験も持ち合わせていた、ネットワークやソフトウェアなどIT分野の翻訳をバリバリとこなしたかったからです。しかし、始め てみると、IT分野に絡む文章も少なくはないことが、程なく分かりました。これを足がかりにして仕事をこなし続けるうちに、興味がだんだん増したのです。 今ではとうとう、病院の放射線科の医師や技師を対象とする本さえ買って読むようになってしまいました。



 

コラムオーナー

遠田 和子
(えんだ かずこ)

 
日英翻訳の傍ら翻訳学校での講師、またプレゼン研修の講師をしています。著書に、「英語なるほどライティング」、「Google英文ライティング」、「eリーディング英語学習法」、「あいさつ・あいづち・あいきょうで3倍話せる英会話」(講談社)があります。趣味は読書・映画・旅行です。また英語スピーチの練習、バレエのレッスンを続けています。それぞれ少しでも上手くなるため、地道に努力しています。

■Website: WordSmyth英語ラボ
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MISSION STATEMENT

WordSmyth Caféは、翻訳に関わるさまざまの人々が集う「誌上カフェ」です。当コーナーでは、毎号異なる執筆者にご登場願い、翻訳を含む言語に関わるさまざまなテーマを取り上げます。名前のWordSmyth (ワードスミス)は、wordsmith (言葉の職人)とmyth(神話=お話)を組み合わせた造語です。「言葉の職人として、さまざまな物語を紡ぎたい」という店主の願いを表しています。