医師と翻訳者の狭間で ―論文英訳に思いを馳せてー●小林 はる美

2015/05/08

小林 はる美


 
医師・翻訳者。医学部卒業後、母校の放射線医学教室に入局。画像診断専門医。企業における産業医学および予防医学にも携わる。学生時代は馬術部に所属し、馬術の練習に明け暮れていた。医師になってからは、水泳にはまった一時期を経て、数年前からはストリートダンスが何よりの癒しになっている。かなりの朝型。夜明け前のケーキが日課になってしまい、ちょっと困っている。
 


皆さま初めまして。医師兼翻訳者の小林はる美と申します。「医学界」と「翻訳業界」という2つの異なる世界を、日々行き来しています。翻訳業界のしきたりなども知らないまま、あるときは目を白黒させ、またあるときはコーディネーターさんを仰天させながら、「アクセプトされる論文に仕上げたい!」という熱い思いで突っ走っています。こんな私が翻訳に携わるようになってから、もう少しで2年。医師でいえば、ちょうど研修医を終え、いよいよ独り立ちのころです。この一区切りとも言える時期に、これまでの2年間を振り返り、医師の目から見た翻訳業界への感想なども綴ってみたいと思います。
 
私は、地方都市にある小さな翻訳会社(A社)にフリーランス翻訳者として登録しています。100%手作業の論文英訳を主な業務としている会社です。純粋な医学論文は少ないので、私は医学以外の分野に対応することが多くあります。しかし、これまで医学や治験関連の翻訳講座を受講する一方、テクニカルライティングの勉強に多くの時間を費やしてきたせいか、それほど抵抗感なく医学以外の分野にも取り組んでいます。とは言うものの、たまに医学の原稿をいただくと、我が家に戻ったようなほっとした気分になる、というのが正直なところでしょうか。
 
チェッカーとして
私は翻訳業界でのキャリアを、チェッカーとしてスタートしました。チェッカーと一言で言っても、会社によって役割は様々でしょう。A社では、フリーランスのチェッカーにも大きな役割が与えられています。ネイティブ校閲(NC)前の訳抜け・ケアレスミス・誤訳等のチェックや修正だけでなく、NC後にネイティブ校閲者さんとやり取りしながら、納品できる状態にまで原稿を仕上げていきます。
 
翻訳者には一人ひとり仕事の仕方に個性があります。そのため、私は各人ごとにチェック前の準備を変えています。例えば、翻訳時の用語検索の詰めが甘いか否かにより、英訳が入稿するまでに用語を徹底的に検証しておくグループと、用語検索はさっと済ませて原文の読み込みに時間をかけるグループとに分けています。これにより、限られたチェックの時間を有効に使えるようになりました。また、原稿に資料が付いていない場合には資料を請求し、原稿に間違いや論理の矛盾、疑問点がある場合には、コーディネーターさんからお客様に問い合わせていただきます。「翻訳者を差し置いて」という気がしないでもありませんが、英訳の質を上げるために必要ならば、誰であれ気付いた人がやればよいと考えています。
 
海外に住み、日本語や日本文化に馴染みのないネイティブ校閲者さんが理解しにくい内容に関しては、関連する英語サイトを探してURLを付けたり、背景知識について英語で説明文を書いたりします。また、アブストラクトのみの英訳では、論文の本文を読まないと分かりにくいので、該当部分の英文サマリーを作ることもあります。時間はかかりますが、ネイティブ校閲者さんからお礼の言葉が届いたりすると、疲れも吹っ飛びます。チェッカーの経験から、英訳の入稿後納品されるまでの工程を理解し、次工程に携わる人の負担を軽減することの大切さを学びました。
 
翻訳者として
論文の英訳では、正確であることは勿論のこと、簡潔・明快な英文を書くことを常に心がけています。多くの研究者は、忙しい研究時間をやりくりして論文を読む時間を捻出しているのが現状です。そんな研究者にとっての「理想の論文」は、短時間で効率よく必要な情報をピックアップできる論文です。必要な情報のみが浮き上がって見えるような論文なら最高です。現在、国際ジャーナルの読者の半数以上が英語ノンネイティブだと言われています。また非英語圏の査読者も増えています。研究者は世界中の一人でも多くの人に自分の研究を知ってもらい、世の中のために役立ちたい、との思いで論文を投稿します。ですから、長く難解な英文が読者を読解の途中で撃沈してしまうような「残念な論文」にはしたくありません。誰が読んでも読みやすく分かりやすい論文であれば、著者と読者の両者にとって「嬉しい論文」になります。
 
チェッカーとして仕上げまでの工程に関わった経験から、私は自分が英訳した案件についても、ネイティブ校閲者さんとやり取りしながら最終仕上げまで行います。自分の英文がどのような過程を経て、最終的にどのような形で納品されるのかを、自分の目で見届けています。翻訳者として最後まで関わるのは、大きな責任を背負うことにもなります。しかし、フィードバックすら貰えない翻訳者が多い中で、このような環境を提供してくださるA社には、とても感謝しています。
 
医師として
論文は、研究者が心血を注いだ努力の結晶です。したがって、使用言語に関わらず、論文は本来研究者自身が書くものだと考えています。しかし様々な事情により、論文の英訳を第三者に委ねることもあります。自分の分身のように大切な論文の総仕上げを見ず知らずの他人に託すのは、私だったら心配でたまりません。細心の注意を払い、図表はもちろんのこと、専門用語集や関連分野の文献リストなどあらゆる資料を添付し、翻訳者さんと緊密に連絡を取り合いながら作業を進めていくでしょう。
 
ところが現実には、最低限必要な資料さえなく、英語論文のなかに虫食い状に残った日本語の英訳など、愕然とするような依頼もあります。一体なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。おそらく、かつての私がそうであったように、多くの研究者は「プロ」の翻訳者に頼めば、どんな原稿でも右から左へと簡単に英訳できると思っているのでしょう。知らない方には教えてあげませんか。お客様も翻訳チームの一員として互いに協力し合うことで、同じ料金でも数段質の高い英語論文が得られることを。私の耳には「それさぁ、早く言ってよぉ~」という声が聞こえるのですが、空耳でしょうか。
 
そして、これから
変化し続ける世の中にあっても、時代の流れに抗うわけでもなく、ただ一徹に「我が道」を究めていく日本の職人。そんな職人さんの姿に心惹かれます。私もいつか、あの職人さんたちのような翻訳者になりたいと夢見ています。果てしなく遠い道のりですが、今この瞬間を楽しみながら歩んでいこうと思っています。
 

 

 

コラムオーナー

遠田 和子
(えんだ かずこ)

 
日英翻訳の傍ら翻訳学校での講師、またプレゼン研修の講師をしています。著書に、「英語なるほどライティング」、「Google英文ライティング」、「eリーディング英語学習法」、「あいさつ・あいづち・あいきょうで3倍話せる英会話」(講談社)があります。趣味は読書・映画・旅行です。また英語スピーチの練習、バレエのレッスンを続けています。それぞれ少しでも上手くなるため、地道に努力しています。

■Website: WordSmyth英語ラボ
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MISSION STATEMENT

WordSmyth Caféは、翻訳に関わるさまざまの人々が集う「誌上カフェ」です。当コーナーでは、毎号異なる執筆者にご登場願い、翻訳を含む言語に関わるさまざまなテーマを取り上げます。名前のWordSmyth (ワードスミス)は、wordsmith (言葉の職人)とmyth(神話=お話)を組み合わせた造語です。「言葉の職人として、さまざまな物語を紡ぎたい」という店主の願いを表しています。