在米翻訳者のつぶやき●ラッセル秀子

2014/05/09

ラッセル秀子



翻訳者。東京都目黒区出身。聖心女子大学卒、米国モントレー国際大学院修士課程修了。2005年から同大学院で教鞭をとる。訳書に、マイケル・ポーラン『雑食動物のジレンマ』(東洋経済新報社)、マイケル・ポーラン『フード・ルール』(東洋経済新報社)、デヴィッド・ナイワート『ストロベリー・デイズ――日系アメリカ人強制収容の記憶』(みすず書房)、デール・マハリッジ『繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ』(ダイヤモンド社)ほか。趣味は海を見ること、ネコと遊ぶこと、読書に旅行、茶道など。カリフォルニア州モントレー在住。
 
モントレー国際大学院(MIIS)プロフィールページ:
http://www.miis.edu/academics/faculty/hrussell

 

ここカリフォルニア州モントレーは自然豊かな海沿いの町だ。海辺を歩けばラッコやアシカの姿が見えるし、庭先にはシカやアライグマ、リスなどがやってくる。アメリカ人に人気の観光地なので、夏は町中に観光客があふれる。

そんなのんきな土地にいても、インターネットのおかげで仕事の面では不自由しない。ほぼ問題なく必要な資料にアクセスできるし、日本時間の朝9時がこちらの夕方なので、日本時間に合わせた仕事にも問題なく対応できる。

私はずっと産業翻訳の仕事を主にやってきたが、最近は出版翻訳が多い。仕事を受けると、はじめに1日あたり何ページ翻訳するかノルマを決めて、それに従って進める。第一校はかなり粗い訳で、英語でそのまま残すところもあり、とても人には見せられない代物だ。第二校で原文と訳文を突き合わせ、調べものをできるだけすませる。第三校からは日本語で推敲あるのみ。だいたい第七校ぐらいまでしつこく推敲を重ね、できれば最後に原文ともう一度突き合わせる。最初からまともな文章を書ける才能があればこんなに推敲を重ねなくても済むのだろうが、残念ながら私は無理のようだ。

 
健康管理が第一なので、ウォーキングを日課に。
毎日通る海辺の散歩道から。

出版翻訳と産業翻訳には、報酬体系をはじめいろいろな相違点があるが、なんといっても大きな違いは作業期間の長さだろう。フルで稼働した場合、産業では長くても1~2か月ぐらいのものしか私は経験がないが、出版の場合、ふつう3~4か月はかかる。村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋刊)に、小説家にとってもっとも重要な資質は才能の次に「集中力」と「持続力」だとあるが、これは出版翻訳にもそのままあてはまる。集中力と持続力は「才能の場合とは違ってトレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができ」、ものを書くという作業は「一般的に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを長期にわたって必要とする」ような、まさに「骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されている」と同書で指摘されている点も、翻訳の経験がある人なら嫌というほど痛感するはずだ。本の翻訳に取りかかっているとき、私はいつも「鶴の恩返し」の物語を思い出す。いま現在持てる力をふりしぼり、ひたすら地道な作業を続ける過程は、鶴が自らの羽根を一本一本抜いて布を完成させるのにどこか似ている。私の場合、翻訳作業中の姿はあまりにも悲惨で人様の目にはさらせないという点も、悲しいかな、通じるものがある。

どう控えめに見ても出版翻訳はとにかく過酷な作業だ。それでもやめようと思わないのは心理的報酬が高いからだろう。まず、文章のプロが書いた良質の文章を訳せる喜びは何ものにも代え難い。また、本を一冊翻訳することは、学校で講義を受ける経験にも似て、知識が血となり肉となるのがわかる。調べ物や推敲を重ねる作業も最高の知的ゲームのようで楽しい。
作業中は原書の世界にどっぷりはまりこんでしまうのも、出版翻訳の特徴かもしれない。私はもともとはまりやすい性格なのか、ツール・ド・フランスの本を訳したとき、それまでまったく知らなかった自転車競技に夢中になり、レースまで見に行った。食問題の本を訳したときは、アメリカの牛肉生産の実態を知って愕然とし、しばらく牛肉が食べられなくなった。戦時中アメリカで起きた日系人強制収容について訳していたときは、脳内が完全に戦時中にタイムスリップしてしまい、道行くアメリカ人がみな人種差別をしているように思えて参った。

 
ヨットハーバーには、こんな至近距離でラッコがいることも。

さて、私のような海外在住の翻訳者がいちばん気をつけなければいけないのは、日本語環境に住んでいないということだ。英語は毎日いやでも耳に入ってくるので、新しい言葉や表現をできるだけメモするようにすれば、まあまあ身につく。けれども海外生活も長くなると、英語が身につくスピードより、母語である日本語が衰えるスピードの方がどうやら速いようだ。インターネットや雑誌、新聞で日々新しい情報に日本語で触れることはできるが、意識的に語感を維持して磨く努力をしないと、すぐにさびついてしまう。日本に帰国すると、耳をそばだて目を皿のようにして「生きた日本語」をめいっぱい消化吸収する。友人とのおしゃべり、見知らぬ人同士の会話、電車の中吊り広告、町の看板――生きた日本語に久しぶりに触れると、枯れかけた植物に水をやったときのように語感がどんどん生き返るのがわかる。

早いものでこちらに住んで18年になる。今後は、アメリカに住んでいるからこそ身につくある種の土地勘や、アメリカ社会の空気感への理解を深めながら、在米翻訳者ならではの仕事ができれば本望だ。人々の心に残り、長く読み継がれるような良書にめぐりあえるよう、ひとつひとつの本との出会いを大切にしていきたい。
 

 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。