小さな節目に●熊谷玲美

2014/09/12

熊谷玲美

翻訳者。1975年北海道 札幌市生まれ。北海道大学卒、東京大学大学院修士課程修了。専攻 は地球物理学。科学技術振興機構勤務を経て、2007年よりフリーランス翻訳者。訳書は「世界一うつくしい昆虫図鑑」(宝島社)、「楽観主義者の未来予測」(早川書房)、「無限の始まり」(共訳、インターシフト)など。共著書に「カガク英語ドリル」(シーエムシー出版)。趣味は、野球(観戦もプレーも)、 弓道、俳句、多摩川での自然観察。東京都調布市在住。
訳書リスト:http://astore.amazon.co.jp/offbulscitra-22
twitter: @nordlys75

 

 いきなり私事で恐縮だが、このJTFジャーナルが発行される2014年9月というのは、私にとって小さな節目の月だ。7年9カ月在籍した勤め先を退職したのが2006年末。この9月でそれからちょうど7年9カ月になる。独立してからはあっという間なので実感はあまりないが、これからは翻訳の仕事をしている期間の方が長くなる。いまだに毎日反省ばかりで、仕事について何か有意義なことは書けないのだが、個人的な節目のタイミングでご依頼いただいたのが嬉しく、思い切って引き受けることにした。

 翻訳者として独立した当初は、元の勤め先から科学政策関係の報告書の翻訳を頼まれたり、翻訳会社経由でプレゼン資料の翻訳を受注するなど、実務翻訳が中心だったが、現在は出版翻訳(ノンフィクション書)と、IT関連のウェブニュース記事和訳の2本柱で仕事をしている。
 ノンフィクション翻訳の道に進んだのは、フェローアカデミーで斉藤隆央先生の「科学翻訳」がテーマのノンフィクションコースを受講したのがきっかけだ。私の大学時代の専攻は地球物理学。「オーロラの研究者になりたい」という夢は早々に挫折してしまったが、科学の面白さや楽しさを伝えたい、なにより自分でそれを味わいたいとずっと思っていたので、科学ノンフィクションの翻訳というのはそれにぴったりだった。受講後に、斉藤先生のご紹介で受講生仲間との共訳の機会をいただき、以来、少しずつではあるが仕事をいただき、翻訳の機会をいただいている。
 科学ノンフィクションの翻訳で一番大変だが面白いのは、調べ物作業だ。最近訳した「世界一うつくしい昆虫図鑑」では、何百種という昆虫の学名に対応する和名(たとえばArgyrophorus argenteus→チリギンジャノメ)を調べるために図書館に何日もこもった。別の本では著者が引用している数字が間違っていたこともあるので、数字はできるだけ裏を取らなければならない。難しい科学法則を平易に説明している原文の場合、かえって科学的に不正確にならないよう、きっちり確認してから訳す必要がある。いろいろと気は遣うが、科学好きとしてはたまらない作業だ。そしてノンフィクション翻訳で何より楽しいのは、仕事をするにつれて知識がどんどん広がること。一般向けの数学の本を何冊か訳したのだが、実を言うと学生時代は数学が大の苦手。クラスメートの英語の予習を手伝う代わりに、数学を教えてもらっていたくらいだったのだが、訳した本はどれも数学の面白さや実用性を理解しやすく説明する内容で、難しいが、意外なほど面白い翻訳作業だった。
 出版翻訳の場合、原稿は電子データの場合でも、紙の本の場合でも、かならずプリントアウトして(本の場合は拡大してコピー)、訳語のメモや、作業メモをあれこれ書き込むようにしている。実際の翻訳の進め方は、恥ずかしながらいまだに試行錯誤中だ。他の翻訳者さんに聞くと、「完成原稿に近いレベルにしあげながら進む」派と「ひとまず粗訳を最後まで作ってから何度も推敲する」派がいるようだ。私自身は、以前は「完成原稿派」だったのだが、難しい箇所にくるたびに進捗が遅れていくので、最近は「粗訳派」に移行している。こういうノウハウは人それぞれのようで、翻訳者仲間とあって話をするたび、「そういう方法があったか!」と驚いてばかりいる。

俳句の吟行中。といっても気分は自然観察。
最近、昆虫本を訳したせいで、少しずつ昆虫好きに。

 
 2本柱のもう一つ、ITニュースの翻訳は、週2日、定期的にお引き受けしているもので、内容は消費者や企業向けのサービスや製品についての話題が中心。どんなニュースが来るかはその日にならないと分からないので、日頃から情報収集は欠かせない。話題になっているSNSやアプリは、無料のものはとりあえず試してみる。ハードウェアはさすがに全て手に入れられないので、苦労することは多い(それでも「仕事に必要だから」という理由をつけて、スマートフォンに変え、Macを購入した)。最初は知らないことが多くて苦労したが、続けているうちにだいたいの方向感覚くらいは身についてきた気がする。
 ニュース翻訳は実務翻訳に分類されるのかもしれないが、翻訳作業としては、時間の都合上、ファイルに上書きしていく作業になることや、ウェブ向けの処理を多少すること以外、出版翻訳とほとんど変わらない。また、ウェブ上で一般の人の目に触れる読み物なので、出版翻訳の経験がとても役に立っている。逆に、最近訳した、テクノロジーでグローバルな問題を解決できることを説いた「楽観主義者の未来予測」では、ニュース翻訳で得た最新テクノロジーの知識がとても役に立った。
 
昨年WindowsからMacにしたが、特に翻訳ツールを使わないので、移行に問題なし。

 独立してから今日までは、本当にあっという間だった。もともとのんびり屋で、1人で過ごすのも好きなので、フリーランスでの仕事でもストレスがたまらず良いのだが、つい生活が不規則になり、スケジュールも遅れがちで、反省の毎日だ。その私があえてルールにしているのが「遊びの予定をキャンセルしない」こと。独立する時、一足先に独立していた受講生仲間が、「遊びの予定は仕事の予定と同じように入れて、きちんと遊ぶこと」とアドバイスしてくれた。そうしなければいつまでも休みを取れないからだ。仕事の進捗が芳しくないときに、予定通り遊びに行くのはとても勇気がいる。それでも頑張って出かけて、帰ってきてからまた頑張る。その繰り返しだ。
 そんな「遊び」の一つが、十年ほど前に始めた俳句。俳句というと、「わびさび」だとか、シニアの趣味というイメージがあるかもしれないが、私にとっては自然観察の一部という感覚だ。吟行にでかけても、野鳥を眺め、苔を観察しているうちに時間が過ぎ、肝心の俳句ができないこともしばしば。そしてなにより、言葉の勉強でもある。てにをは一つ、語順一つで全く違う句になるし、良いと思った表現でも、他の人には全く伝わらないこともある。まさに翻訳に共通する話だ。そして何より、言葉の引き出しが増える。いつか翻訳者のみなさんと一緒に俳句をするのが、私の小さな夢だ。
 座ってばかりなので、体を動かすのも、体を動かすのも仕事だと思っている。スポーツクラブなどに通ったこともあるが、最近定期的にしているのは弓道。始めて四年ほどになる。週に数回、市内の道場で練習するのだが、静かな動作で的に向かううち、仕事で熱くなった頭が鎮まり、逆になまっていた体が徐々に動きだすのがいい。そして、月に数回の草野球(軟式野球)。経験ゼロから始めて、これも十年近く続いている。いまだにとてつもなく下手で、試合ではエラーして怒られてばかりだが、バッティングは大好きだ(三振でなければ)。試合後のビールも格別。最近は、ジョギングにも興味がある。今は暑くてサボり気味だが、来年春のマラソン大会にいくつか申し込んでしまったので、少し涼しくなったらすぐに再開しなくては。
 こんな風にマイペースな私の翻訳者生活だが、小さな節目を迎えた今、また気持ちを引き締めて仕事をしたいと思っている。

 

野球のグラブ。いつもチームメイトに手入れが悪いと、怒られている。
 
 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。