Out of Line●小野寺 粛

2014/11/07

小野寺 粛 (おのでら しゅく)


1973年富山県生まれ。東京大学国際関係論分科卒業。現在は出版社に勤務、フリーの時期に通翻訳に従事したのを機に、翻訳学習書の編集のほか、自分でも翻訳を続けている。
表向きの趣味は将棋と海外旅行だが、本当の趣味は仕事。また、ピアニストとしてもまれに活動し、東京やスペインでリサイタルを行う。2012年にはルーマニア・バカウ交響楽団とチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を協演。さらに、占い師として、一時期横浜中華街にも出店していた。

 

 いつまでも駆け出しのつもりが、あっという間に7年。後ろを振りかえればたちまち赤面、穴に入って越冬したくなるが、次の瞬間、迫りくる納期にはっと我に返り、ゆく日も来る日もキーを叩き続け、壊したパソコンは10を超える。過去を忘れるのが幸せの秘訣と悟ったような気もするが、せっかくの機会を活かして、支障のない範囲で足元を見つめなおしてみたい。
もともと予備校で英語を教え始めたのが、翻訳に興味を持ったきっかけである。20代半ば、音楽を学ぶ片手間にとアルバイト気分ではじめた仕事だったが、受験英語とはいえ、教えるには自分の実力があまりに足りないことを悟り、語学の勉強をはじめた。当時はTOEICや英検を目標にしていたが、先輩講師がふと口にした、「英語を使って仕事をするなら、翻訳や通訳をめざすしかない。アメリカ人のようにペラペラしゃべれたって、らちが明かないだろう」という一言が、知らぬうちに、そっと心に根を下ろした。
その後どういう風の吹き回しか、社会人向けの通信講座の制作責任者となり、語学からはしばらく遠ざかった。ただ、法律や金融・会計、不動産や福祉といった多岐にわたる分野の編集を行う中で、ビジネス系の実務翻訳に必要な知識が身についたのだろう。
通信講座の立上げがひと通り終わったころ、予備校を辞めてフリーになった。当初は前職の仕事を請け負っていたので金銭面の問題はなかったが、いずれ袂を分かつことがわかっていたので、次の道を考えなければならなかった。今のうちに何か手に職をつけておこうと思った時に、天啓のように心に蘇ったのが先ほどの言葉。「翻訳を学んでみよう」と思って、翻訳学校で学ぶことに決めた。

 しかし翻訳学校では、よい学びをすることができなかった。最大の理由は、自分に謙虚さが欠けていたからである。たとえば、the Westに対して私が「西洋」という訳語をあてたのに対し、「西洋は古い響きがする。欧米と言うべきだ」というコメントをいただいたことがあった。しかし当時の私は言葉に対する感覚があまりにも鈍く、「てやんでえ、どちらでも同じだろう」と、反発心しか抱かなかった。Wikipediaの記述をここで引用するのは気が引けるが、「西洋」の項には「現代では、東洋・西洋の意味は歴史的な観点で用いられることが多く、現代用語としてはその役割を終えている」とあり、先の指摘はもちろん正鵠を射たものである。だが、当時の私はただ受け身で先生の解説を聞いているだけで、自分で調べることさえしなかった。「レモン畑」なのか「レモン園」なのか、「美しい」なのか「麗しい」なのか。日本語の精妙な使い分けに心を砕く翻訳者が、重箱の隅をつつく、どこか辛気臭い人種に思えたのである。

 さらに、先生方の指摘にぶれがあり、時には誤りがあるのも気になった。思い上がりもはなはだしいが、授業料を払っているのだから、一つひとつの課題に対して完全に割り切れた解答や解説が示されるのが当たり前、と当時は考えていた。しかし本当に身につけるべきなのは、先生方の翻訳に対する姿勢だった。常に完璧であることが不可能であることを前提に、生の原文に対してどこまでも謙虚に、慎重に調べつくして臨む、という態度が大切だったのに、と今にして思う。翻訳学校に通う最大のメリットは、先生方の引立てを受けて仕事や人脈を紹介していただくこと、のはずだが、私のような思い上がった人間を、どうにかしてやろうと思う人がいるわけもない。

 一方この時期、普通の翻訳者が聞いたら卒倒するような安いレートで官公庁案件を大量に行った。お金を払って学ぶだけでなく、少しでも報酬をいただいて学ぼう、と思ってやった仕事だが、正式な公用文が多かったため、結果的には日英の基礎が固まった。個人的には、体力づくりや基礎固めという目的を忘れなければ、このような仕事をある時期にすることは悪いことではないと思う。

 その後は人並みのレートの仕事に落ち着いたが、ジャンルを一切決めず、特許から文化評論まで、あらゆる仕事を引き受けていった。ただ、これは良い選択ではなかったと思う。先日、看護師から医療翻訳者になった方が、「みんなどうして医療翻訳者になりたいのか、さっぱりわからない。私だって、何年も大学で専門に勉強してやっとここまできたのに、なんですぐ医療翻訳ができると思うのかしら」とおっしゃっていた。「稼げる分野の翻訳者に」というキャッチコピーに乗って、専門知識ゼロから技術系の翻訳者を目指すという話を聞くが、多分、そう簡単なものではなかろう。もっといえば、「専門はありません、何でも訳します」という翻訳者や翻訳会社の存在が、翻訳者全体の信頼性を損ない、翻訳者の地位の低下につながっているのではないだろうか。専門の確立は、とても重要だと思う。

 閑話休題、そうこうするうちに、またどういうわけか、三省堂に入社した。三省堂では翻訳書をメインで扱うポジションにはいないが、お世話になった先生方の翻訳学習書を出版させていただいたし、今後とも、出来る範囲で手を広げてみたい。
さらに、ここしばらく、ボランティアベースで、新人翻訳者を他社にご紹介する機会をいただいている。訳書を出したいが、最初の一冊を出すご縁に恵まれず苦戦する翻訳者は多い。一方、出版社の側も意外に人脈が限られているから、よい方を紹介すると喜ばれる。そこで、知人や兄弟弟子の中からプロジェクトの適任者を選び、ご紹介している。

 駆け出しの時に自分自身が苦しんだ分、多くの方が最初の一歩を踏み出せるように、という思いで新しい方を積極的にご紹介させていただいているが、いざ選ぶ立場になってみると、ずっとご一緒させていただくのは、お人柄が優れて仕事がていねい、いつも感謝の気持ちを伝えてくださる人に、どうしても偏りがちである。どんなに実力があっても、取るに足りないつまらない仕事という雰囲気を感じさせたり、全力を尽くしていない様子を見せられたりすると、その翻訳者とはまず続かない。

逆に今は力が足りないけれども、人柄もよく頑張っているから時間をかけて育ててみよう、ということもある。また、一回でよいものにならなくても、面倒がらずにフィードバックを受け止めて、ていねいに推敲してもらえると、信頼関係が築かれていくように思う。

 そうはいっても、もちろん手配師になるつもりはなく、私自身もこれからも翻訳を続けていきたいが、自分でなければできない仕事、自分がやるべき仕事、ということを考えたとき、音楽や芸術に関する著作を、時間をかけて紹介していこうと思う。専業翻訳者の足元にも及ばないことは先刻承知だが、一介のアマチュアとして、翻訳という知的で素晴らしい仕事に一生関わることができれば、望外の幸せである。

 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。