私の選んだ道●久保 尚子

2015/07/03

久保 尚子

翻訳者。京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科修了、(株)日本総合研究所勤務を経てフリー翻訳者となる。科学誌Science Signaling、Science Newsタイトル、医学誌NEJM Journal Watchなど医療・科学分野の英日翻訳、『ビッグクエスチョンズ 物理』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『自助論の教え』(PHP研究所)、『難解な症例を推理せよ!』(日経BP社)、『Super Brain』(保育社)の翻訳のほか、翻訳協力書に『世界きのこ大図鑑――原色・原寸』(東洋書林)、『エコがお金を生む経営』(PHP研究所)、他。
 



 私が翻訳の仕事を選んだのは、人生のちょっとした転機に自分の働き方を見直すつもりでSWOT分析に取り組んだのがきっかけだった。自分の強み(S)と弱み(W)、周囲にある機会(O)と脅威(T)を軸にとったマトリックスを使って、自分の置かれた状況を見直してみたのだ。同時に、「ミッションステートメント」や「ライフコンパス」のようなものも箇条書きにしていた。当時のメモを見ると、「学び続け、人生を享受したい。学んだことや学ぶ喜びを人に伝えたい。学びを享受できる環境を次の世代のために守り育てることに貢献したい」「知らなかったことを知り、自分で考え、創意工夫し、何か形に残せるような仕事がしたい」「生活が仕事のヒントになり、仕事が生活を豊かにしてくれるような生き方がしたい」というようなことが書いてある。そうやって書いていくうちに思いついたのが、翻訳だった。そして、いったん思いついたら他に考えられなくなった。翻訳なら、これまでにしてきたことも、これからすることも、すべてが役に立つ――子供のころ、時間を忘れて本に没頭したこと、英語の絵本シリーズがお気に入りだったこと、日が暮れるまで野外を走り回って遊んだこと、国語と英語が得意科目だったこと、大学で化学と分子生物学の研究をかじったこと、IT革命時代にその業界に就職したこと、色々やらせてもらった部活動や習い事、趣味で続けていた英会話、長距離通勤中の読書、過去の夢や悩み、そのすべてが生きる――と思えた。

 そうと決まれば、まずは本屋へ。翻訳のこと、業界のこと、ビジネスのこと、何でも揃っている。いつか自分の訳した本が棚に並ぶとしたらこの辺り、などと妄想することもできた。

 次に、知り合いのつてやセミナーを利用して、プロの翻訳者の話を聞いて回った。ひとくちに「翻訳」といっても、分野も形態も働き方も様々。もちろん基礎や共通部分はあるにしても、どこを目指したいのかがわからないと“その先”の学びようがないように思えた。登りはじめる前に、上から見える景色について少しでも多くお聞きしておきたかった。学べる場所も方法もたくさんある。でも、どこで誰に学ぶかは自分で選ぶしかない。声の大きい人の言うことが正しいとは限らない。多くの人に当てはまることが自分にも当てはまるとは限らない。相性だってある。食わず嫌いはもったいないけれど、鵜呑みにはしたくない。幸い私は、十数人目で師匠・夏目大氏に出逢い、芋づる式に信頼できる翻訳仲間と知り合えた。もちろん、それまでにも、その後も、お会いできた諸先輩方からは貴重なアドバイスをたくさんいただき、いつでも取り出せるように心の引き出し(手帳、ともいう)に大切にしまってある。翻訳については色々なことを言う人がいるけれど、気持ちの面でぶれずにいられるのは、立ち帰るべき原点と追いかけるべき背中があるからだと思っている。

 勉強開始から約2年半後、トライアルの合格と師匠からのお声がけが重なり、書籍翻訳と実務翻訳の仕事をほぼ同時にスタートさせることができた。仕事として受けたからには「駆け出し」「翻訳者の卵」「勉強になります」は禁句――という師匠の教えを守りはしたけれど、実際にはハラハラ、ドキドキ、本当に勉強になった。想像していたとおり、私にとって翻訳は、本、知識、人との出逢いを次々に運んできてくれる有難いお仕事になった。続けるかぎり、新しい情報が入ってくる。まず原文の中身が面白い。わからないことが書かれていれば、指先で検索し、足で情報を取りに行き、体験し、五感で楽しめる。読んだだけでは拾いきれなかった味わいに、訳したからこそ気づけることもある。そうやって得た知識がいつの間にか自分の生活の一部になり、その積み重ねのなかで、関われる人の数も増えてきた。

 出逢いの多さに比例して自由度が増すところも、この仕事の魅力の1つだと思っている。ネット環境さえ整っていれば、どこででも仕事を受けられる。ご依頼さえいただければ、誰とでも仕事ができる。一方で、自由度が高いということは、自分で選ばなければならない、ということでもある。実は昨年、仕事部屋を京都から東京に移した。部屋にこもって訳しているときは、どこでも同じと感じるが、合間の時間により多くの人に出会えるようになったことで、仕事もプライベートも確実に広がった。意識的に選ぶことで、かえって広がることもあるのだと実感している。

 仕事の中身についても同じことが言えるかもしれない。翻訳には時間がかかるので、自分で受けられる量には限りがある。何を選ぶかは人それぞれ。流れに乗る人、単価で区切る人、内容で選ぶ人。なかには「自分では選ばない。自分に何が向いているのかは他人のほうが知っている」というスタンスで成功している方もいて、それも素敵だと思う。選ばなければならないのは、スタンスなのかもしれない。

 私の場合はどうだろう。振り返ってみると、(実現できているかどうかは別として)スタンスらしきものはあったので、ここに書き出してみようと思う。

1)顔の見えない相手からの依頼は受けない。
2)仕事の依頼を受ける前に依頼主との人間関係をできるだけつくっておく。
3)定例案件やリピート案件を大切にする。
4)実務翻訳と書籍翻訳、どちらも大事。両方を続けていくことに意義がある。
5)断るときはサクっと、引き受けたらトコトン。
6)将来的に機械化されやすそうな(されるべき)仕事は避けて通る。
7)仕事より先にプライベートの予定を入れる。
8)迷ったら、何のために誰のために訳すのかを思い出す。

 きっと、これを見てご賛同くださる方もいれば、そんなことではダメだとご忠告くださりたくなる方もいらっしゃるだろう。いずれにせよ、この7年あまり、私はこのような形で仕事を続けてこられた。最初のころは自分の得意を生かせる案件、比較的取り組みやすい構成の本からお話をいただき、育てていただいたのだと思っている。その後もお付き合いを重ねるなかで、様々なチャンス、様々なお声がけをいただいてきた。これまでにお付き合いくださった方々には心から感謝しており、今後も長くお付き合いいただきたいと願っている。一方で、まだまだ課題も改善の余地もあり、まだまだ上り坂だと思っているので、これからも多くの出逢いからよい影響を受け、好機をとらえてしなやかに変化していきたい。
 


京都の鴨川。何か迷うたびに、ひとり散歩した大切な場所。

 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。