出版翻訳と軍事とTradosと●角 敦子

2015/09/04

角 敦子

出版翻訳者。福島県会津若松市生まれ。津田塾大学英文科卒。訳書にハーブ・ゴールドバーグ『なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか』(ベストセラーズ、2003年)、M・バフマンヤール他『ネイビー・シールズ』(原書房、2009年)、N・カウソーン『世界の特殊部隊作戦史1970‐2011』(原書房、2012年)、D・ブロー『アッバース大王 - 現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー』(中央公論社、2012年)などがある。恋愛から銃まで、幅広いジャンルのノンフィクションを手がけてきたつもりだが、軍事への傾きは否めない。
 
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 軍事の翻訳をしています、と言うとどんな人も、必ず一度は「えっ?」と聞き返してくる。
 一昔前は軍事の出版翻訳者というとほぼ男性だったからか、はたまた目の前のオバさんが、M4アサルト・カービンやレオパルト主力戦車と結びつかないせいか。
 先日も高校の恩師に目を丸くされた。先生、済みません。私はノンフィクション全般を訳していますが、軍事の翻訳が面白くてたまりません。ちなみに高校まではバリバリの理系だった。
 子供の頃は、朝鮮戦争の野戦病院を題材にしたテレビドラマ『M☆A☆S☆H』や、第二次世界大戦の米独部隊の攻防を描いた『コンバット!』が好きだった。兵隊や兵器類のカッコよさに惹かれたのではない。極限状態でのヒューマン・ドラマにゾクゾクしていたのだ。ただ当の本人は運動オンチの本の虫で、制覇したのは小中学校の図書館ぐらいだった。
 (受験では理系学部にフラれ)大学の英文科に通ったものの、翻訳に興味をもったのは卒業から10年後だった。その間何をしていたのかというと、とりあえず塾講師や事務の仕事をやり、後半の5年間は夫の仕事の都合でニュージーランドに行っていた。帰国後、たまたま翻訳の通信講座の新聞広告を見つけたのをきっかけに、英日の出版翻訳講座を受講した。実務は自分には無理だと、はなから挑戦する気はなかった。
 通信からまっすぐ広瀬順弘先生のワークショップに突入したのは、添削の「あなたは絶対にプロになれます」という評を真に受けたからだった。課題の本はテクノスリラーという聞きなれない分野だった。がなんと、ふたを開けてみると軍事小説ではないか! この通学講座が実質的に、軍事翻訳への入口になった。1991年、ちょうど湾岸戦争の空爆がバクダッドの夜空を照らし、暗視カメラの写真が新聞紙面を飾った頃だった。
 軍事に抵抗がない私はそこで実力を認められ、プロへの切符を手にした――なんてことにはならなかった。プロとの実力差は天と地ほどもあった。しかも広瀬先生のご指導は、まさに「翻訳トラの穴」。ダメ出しはされるが、どうすればよいかは自分で考えろ、と突き離される。私は、先生のOKが出るまで人一倍苦しんだような気がする。当時はまだインターネットの黎明期で、書籍での調べ物のほうが多かった。
 そうして鍛えられたのが功を奏してか、直後に受けた翻訳会社のトライアルに合格し、下訳とシノプシスのお仕事をいただけるようになった。その間も、ワークショップのメンバーを中心に勉強会を続けて、切磋琢磨し合っていた(その中から3名が出版デビューを果たしている)。最初の訳書は、提出したシノプシスが本になったジーン=マリー・スタインの『3週間でIQぐいぐい』(きこ書房、2003年)。待望の初の軍事モノは、R・Y・ペルトン『ドキュメント 現代の傭兵たち』(原書房、2006年)である。『現代の傭兵たち』は、軍事好きの血を騒がせる内容で、訳文を綴るのが楽しかった。ふつう実戦を伝える戦記モノは、自伝でなければ軍の公式文書をもとにするため、事実の羅列になりがちだ。この本は、ジャーナリストの体当たりルポで、臨場感あふれるエピソードが次から次へと飛びだしてくる。
 以来、恋愛の自己啓発書、歴史書、政治、伝記、とはば広いテーマのノンフィクションを訳してきた。それでもとくに軍事に魅力を感じるのは、人間の賢さと愚かしさが凝縮しているからかもしれない。少数精鋭の英SAS特殊部隊は、空中戦をしなくても、駐機している戦闘機の計器類を破壊して戦闘力を奪う。第一次世界大戦の西部戦線の塹壕戦では、独軍の重機関銃の弾幕に、仏軍の兵士が無策のまま突入を繰り返して犬死にした。ヒトラーは補給線を伸ばしすぎて自滅した。ビン・ラディンが殺害されても中東は落ち着くどころか、ISの台頭で今なお予断を許さない。事実は小説より奇なり、軍事ネタは尽きそうもない。

 
「お母さんの出す本は火薬の匂いがする」「たしかに……」

 
 翻訳支援ソフトのTrados Studio 2009を導入しているのも、軍事等の専門用語を翻訳メモリや用語ベースに蓄積し、さらには表記揺れを防ぐためだ。Studioとは最近やっとお友達になれた気がする(なのでバージョン・アップできない)。ちなみにTradosは、日英特許翻訳の下訳と関連して、使うようになった。例のごとく「あなたならできるよ」の殺し文句につられて、そんな近所のオジさんのアルバイトをしていた時期もあったのだ。ノンフィクションの翻訳でもStudioを使うと、原文と訳文が左右に並んで表示されるので、訳漏れ防止になり、原文との突合せができる。図鑑の翻訳ではとくにマッチ率の高い文章も出現する。
 その他にも、大量の訳文をスピーディに検索してくれる対訳君を重宝している。たとえば出現率の高い“killed”なら、過去の訳文から「命を失う」「殺される」「致命傷を負う」「落命する」「屍を築く」「即死する」等の訳語を引っ張ってこられる。
 インターネットが普及して、調べ物は格段に楽になった。軍事はとくに最新の情報がどんどん入ってくるので、書籍になるのを待っていられない。情報ツールとしてはYouTubeも活用している。銃の部品がどんな配置になっているのかを確かめるために、分解の動画を見続けて、半日がかりで確認したこともあった。2014年に出版された、マーティン・J・ドアティ他著『銃と戦闘の歴史図鑑: 1914→現在』(原書房)も、そのようにして訳を完成させた。実際に危機管理産業展に足を運び、防弾ベストのずっしりとした重さを確かめ、最新の小火器射撃位置探知装置を触わらせてもらったりもしている。
 
 とまあ、軍事の翻訳に携わるようになった理由を、貴重な誌面をお借りして説明させていただいた次第である。そしてこうまで書いてはなはだ恐縮だが、私は軍事以外はやりません、というのではない。最近の訳書、猪口孝編『日本と韓国: 互いに敬遠しあう関係 (現代日本の政治と外交 7)』(原書房)では、日韓の外交関係の論文に取り組んだ。執筆者に両国の一流政治学者を集めた本書は、安倍首相と朴槿恵大統領の確執のルーツなど、情報の洪水の中で見逃されがちな真実に光を当てている。
 仕事は、特定のコーディネーターさんからいただいている。こんな本どうですか、と書籍を紹介され、紙コピーの原書データをもらって自分でOCRにかけ、翻訳作業を開始する。いまだに持ちこみはやったことがない。孤独な翻訳作業を筋トレとネコとの遊びで紛らわせつつ、振りかえればいつの間にか、12年間が経過してしまった。
 
 
 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。