『デュカン・ダイエット』をめぐる冒険●福井 久美子

2015/11/06

福井 久美子

英グラスゴー大学大学院英文学専攻修士課程修了。英会話講師、社内翻訳者を経て、2005年からフリーランス翻訳者。2008年に『神の先史文明 シビライゼーション1』(エンターブレイン、田中敦子さんとの共訳)で出版翻訳デビュー。主な訳書に『ハーバードの“正しい疑問”を持つ技術』(CCCメディアハウス)、『スピーチ世界チャンプの魅惑のプレゼン術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『パリジェンヌ流 デュカン・ダイエット』(講談社)、『墓地の謎を追え』(論創社)などがある。
 



 「今まで訳した本のなかで一番苦労したのは?」と訊かれるたびに、わたしが迷わず挙げる本、それが『パリジェンヌ流 デュカン・ダイエット』(講談社)だ。これはフランス人のピエール・デュカン医師が考案したダイエット法で、仏語の原書は2000年に出版されてベストセラーとなり、2010年には英訳版も出版された。
 わたしがこの本を訳すきっかけとなったのは、リーディングだった。英訳版を読んでレジュメにまとめた後、そのまま翻訳も任せてもらえることになったのだ。リーディング段階では、「むむむ。あちこち読みにくいところがあるぞ。ま、翻訳版だから仕方がないか」と思っていたが、翻訳をはじめた途端に頭を抱えてしまった。
 なんせ翻訳なので一本調子というか、全体的に文章に抑揚がない。そのため、こっちまで引っ張られてのっぺりした訳文を作ってしまう。おまけにまどろっこしくて意味がくみ取れない箇所もチラホラ(翻訳あるある)。ダメだ、原文を見ないと。ということで原書を取り寄せてもらうことにした――原文はフランス語だったが、大学のときに第二外国語で勉強したから何とかなるかな、という感じだった。
 届いた原書を開いてすぐに雰囲気が違うことに気づいた。英訳版はかなり原書を忠実に訳しているため、内容はほぼ同じだった。だが原書の方が文章に血が通っていて、メリハリがあった。何よりも筆の力というか、メッセージを伝えようとする力が圧倒的に違った。たとえば、英訳版で10回読んでも意味がわからなかった箇所が、原書を見れば一発でわかってしまう。重訳の限界がわかった気がした。
 「そうか、すべての答えは原文にあるのか。よし、ならこっちを訳すぞ」英訳版を勢いよくゴミ箱に投げ入れ、原書の翻訳に取りかかった……までは良かった。「ひぃぃぃ」数時間後には悲鳴があがった。なんせ単語が絶望的にワカラナイ。10年以上使っていなかっただけあって、フランス語の記憶はまっしろになっていた。2~3語に1語を辞書で引く始末(しかも紙のやつ)で、1ページ訳すのに何時間もかかってしまう。これが数十ページだったら腹をくくったのだろうが、数百ページとなると……もはやできる気がしない(全然むり~)。泣く泣くゴミ箱から英訳版を拾い上げた。結局、英訳版をベースに所々仏語版を参照しながら訳すという、えらく手間のかかるやり方で何とか訳了した。
 はぁ、やれやれ――と思ったら続きがあった。なんと、その後フランス語関連の仕事を打診されたのだ。1件目が来たときは「あれ、今日ってエイプリルフールだっけ?」などと悠長に構えていたが、2件目が来たときはさすがに椅子から転げ落ちた。もしや……もしや……もしやわたしはフランス語ができるやつだと思われてるんじゃあ!? ひいぃぃぃ。
 どうしよう。困ったぞ。でも、『デュカン・ダイエット』の一部を原書から訳しておきながら、「じ、実はわたしのフランス語は大学の教養課程止まりでして。えへへ」なんて今さらジローでとても言えない(……と言いつつこんなところで暴露して大丈夫かわたし?)。鼻くそレベルのフランス語だとバレる前に学校で勉強することにした。
 本来なら初級クラスに通うべきなのだが、『デュカン・ダイエット』を訳す際に一通り仏文法を復習したし、おまけに辞書さえあればなんとか訳せそうな気もする。まずは自分がどれだけフランス語を訳せるのか試してみることにした。
 「フランス語の学習歴ですか? ええと……5年です」受付でしれっと嘘をついて、まんまと仏文学の翻訳クラスに(不正に)侵入。ふだんは故障してんじゃないの? と思うほど働かない誤訳センサーが、どういうわけかフランス語になるとピピピと反応して誤訳を一掃。どうにか≪フランス語学習歴5年≫の偽看板に恥じない訳文を提出できるようになった。
 「わたし前世フランス人だったかも~」最初は調子こいてふんぞり返っていたが、そのうちに伸び悩むようになった。ふだんフランス語を使わないため、単語や表現のニュアンスがわからない。辞書の定義を超えられないのだ。大味な訳だという自覚は当初からあった。おまけにフランス語学習歴10+年の精鋭がそろうクラスで、「あのー、このenってやつは一体何者ですか?」などと、どこの初心者が紛れ込んでんだよコラ的な質問を繰り返して、みんなを困惑の淵に突き落とすこともしばしば。これはまずい。基礎を固めないと、このままでは一人前の仏語翻訳者になれないぞ(あれ、わたし英語の翻訳者じゃなかったっけ?)。結局、翻訳クラスを半年で脱落して、中級クラスに入り直した。
 フランス語の翻訳といえば、もう一つおもしろいことがあった。すごい翻訳書と出会ったのだ。ジョルジュ・シムノンの『マンハッタンの哀愁』(河出書房新社、長島良三訳)だ。

 

読み始めたとたん、日本語の文章の背後からぶわぁーっとフランス語が立ち上ってきた。夏の暑い日に道の向こうにゆらゆらと浮かび上がる蜃気楼みたいに、はっきりと原文が見えた。おまけにニューヨークが舞台の小説なのに全体にただようフランスの香り……ひゃあ、なにこれすげえ! 原文と照らし合わせて確認したわけではないが、原文の言葉と雰囲気をかなり忠実に再現しているはず。なのに自然で美しい日本語になっていて、そうか、本当に優れた訳文というのは自然な文章でありながら、原文が透けて見えて、さらには原著者の息づかいまで伝わってくるような文をいうのだなとたちまち理解した。
 すごいなぁ。わたしもこんな訳文が書けるようになりたいなぁ。もっと精進しなくちゃあと机に向かっておもむろにフランス語のテキストを……って、いや待て待て。わたしは確か英語の翻訳者だったハズ。
 
 【冒険中】


 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。