翻訳と役割語●片山 奈緒美

2016/03/04

片山 奈緒美

出版翻訳者。ミステリ、ロマンスなどのフィクション、ビジネス・自己啓発、エッセイ、ペットロスやドッグ・トレーニングなど犬関係のノンフィクションに取り組む。最新訳書は『クーポンマダムの事件メモ』リンダ・ジョフィ・ハル著、早川書房。都内の大学でスピーチ実践講座の非常勤講師を務め、2015年4月から大学院で日本語教育の研究中。趣味は狂言鑑賞(茂山千五郎家!)、茶道、犬と遊ぶこと(甲斐犬最高!)、和ハーブ栽培。http://nkatayama.tea-nifty.com/honyaku/
 


 

  こんにちは。書籍や雑誌の翻訳業の傍ら大学院で日本語教育の研究をしています。今回は日本語教育学のテーマのひとつで、翻訳とも関係の深いことについて書きたいと思います。

  役割語という用語をお聞きになったことがあるでしょうか。ひところ金水敏著『〈役割語〉小辞典』(研究社)や『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)などについて、ネット上でおもに文芸書の翻訳者の書き込みが続いたことがありましたね。ご記憶のかたも多いと思いますが、あえて説明するなら、役割語は次のように定義されています。


 

  *ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』2003年、岩波書店)


 

  いかがでしょう。小説や会話が出てくるようなノンフィクションを訳している翻訳者なら、役割語などという名前は知らなくても、ごくあたりまえに使いこなしてきた表現法ではないでしょうか。ところが、この表現法、いまアカデミックな世界でホットなテーマのひとつなのです。

  なぜ、いま役割語? いくら読書離れが進んでるといっても、日本人なら当然知っている言葉づかいでしょ?

  ごもっとも。しかし、いまや日本語を話す人は日本人だけではありません。来日する外国人留学生や海外での日本語学習者が増えるにつれて、彼らに対する日本語教授法などを研究する日本語教育界では、役割語を教える必要性が議論されています。
  
その理由のひとつに、こんな事情があげられます。日本語学習者のなかで近年増えているのは日本のポップカルチャーに憧れて言葉を学ぶようになった人たちで、アニメや漫画、歌、ドラマなどで日本語教科書にない日本語に数多く触れています。それらはとうぜんながらフィクションですから、わたしたち翻訳者があたりまえに使ってきた特定のイメージの登場人物が話す日本語や、昨今の性差が少なくなった口語日本語(女の子が男っぽい話しかたをするなど)などが混在しています。つまり、必ずしも標準的な日本語ではなく、特定の作品のなかでの特定の登場人物の言葉づかいで、《ちびまる子ちゃん》の「あたしゃ……」だったり、《ドラゴンボール》の「おすっ! おら、悟空!」だったりするわけです。そうした素材が日本語とのファースト・コンタクトだった日本語学習者は、実際に日本人の前で日本語を話すときに、妙な言葉づかいをする可能性があります。

  わたしの知りあいのある中国人の女子留学生Aさんは、いまや日本語で大学院の授業を受けるのに支障がないほど日本語力を身につけた人ですが、来日したばかりのとき、アルバイト先で「中国から来ました。自分は××であります」と名乗って自己紹介し、ひどく笑われたそうです。そう、これは軍人など特殊な身分・職業の男性、運動部に所属している男子学生などが使う表現であり、女子学生にはそぐわない。日本語が母語である女性なら、ふつうは使わない言葉づかいです。Aさんはぱっちりした目の美人ですから、よけいに違和感が際立ち、アルバイト先の日本人にはこっけいに聞こえたのでしょう。でも、当のAさんは漫画やドラマで見聞きした日本語を使っただけで、そのときはそれが妙な日本語なのだとは知りませんでした。「自分は~」は一人称表現だと覚えていたからです。だから笑われるとは思っていなかったし、とても恥ずかしかったそうです。

  語学は失敗を繰り返して習得していくものであるといいます。自分の経験を振り返ってもその意見に何ら異論はありません。ただ、いかんせん日本語は年齢や性別、身分などによる言葉づかいの別が複雑です。日本語学習者用の教科書に載っている、もっともスタンダードな日本語の習得が必要なのは言わずもがなですが、学習者にはより自然な「日本人が話すような日本語」を習得したいという欲求があります。その希望をかなえてあげるために、逆に役割語のように「自分にあるカラーをつけてしまう日本語」、「日本人がふつうは話さない日本語」を学ぶ機会を提供する必要があると思います。

  わたしたち翻訳者は、海外の書き手が書いた本を訳す過程で日本人の作家以上に役割語を生みだしています。その理由は翻訳者のみなさんならよくご存じのとおりです。

  たとえば英語にも会話場面にいちいちshe said.などと入れていないことはありますが、日本語は圧倒的に人称代名詞を使う回数が少ない。だから、役割語を巧みに使いわけて訳さないと、会話の話し手が誰なのかがわからなくなりますね。それに、日本語ではきょうだいが登場するとき、どちらが兄/姉でどちらが弟/妹なのかは重要な問題です。"~, isn't it, Tom?"を「~よね、お兄ちゃん?」とするか「~だよな、トム?」とするかによって、読者はその会話の話者が誰なのかを読みとります。生まれながらに日本語で生活しているわたしたちは、脳内で自然にその読みとり作業をしますが、まだ多様な日本語があることを知らない学習者には、文末のささいな違いが実は大きな違いであることを教えていかねばならないのです。そのためにも翻訳者のみなさまにはさまざまな分野の海外作品をどしどし訳していただき、役割語を使った華麗な訳しわけをわたしの翻訳者としての学びに、そして院生として研究材料とさせていただきたく、この場を借りてみなさまのご活躍をお祈りいたします。

最近の仕事。手前は性格がまったく違う双子の男子高校生の訳しわけが必要でした。
 
 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。