わたしを導いたもの●斉藤 静代

2016/05/13

斎藤 静代

 
出版翻訳者・サン・フレア アカデミー講師。訳書は評伝、神話、児童書、大型本等。点数は多くないが、相性の良い本に恵まれた。翻訳者としての覚悟を決めさせたのは『オードリー リアル・ストーリー』(アルファベータ)。覚悟を新たにさせたのが『千の顔をもつ英雄』(早川書房)。サン・フレアアカデミーでは、翻訳勝ち抜き道場(2007年~2015年)の後、文芸翻訳通信添削実践講座を担当する。仕事で硬くなった頭と身体をほぐすのは、うちの三女、12歳の柴犬。
 
ブログ: 2014年に始まった文芸翻訳通信添削実践講座の中で、『コーヒーブレイクde翻訳』と『ひとり演習』を月2回ずつ更新中。
http://e-honyakusquare.sunflare.com/saito_kouza/
 


  職業としての出版翻訳にたずさわって16年。始まりは思いがけなくやってきて、勇んでこの世界に飛び込みましたが、いいことばかりではなくて、悔しくて苦しくて、このまま続けていていいのだろうかと悩んだこともあって、じつは最近、出版翻訳者としての覚悟がぐらついていました。そんなときに、こちらへの寄稿という形で自分を振り返る機会をいただきました。
 わたしの16年、こんなふうに始まりました――
 
始まり
  出版翻訳に漠然とした憧れを持ちながら、在宅で英日産業翻訳をしたり、大学受験英語の添削指導の仕事をしたりしていた2000年のある日のこと、いつものように何気なく地元の情報紙を読んでいました。その情報紙は、地元の中学生がどうしたとか、どこそこの公園でイベントやりますとか、歌のサークルメンバー募集とか、生活記事がメインです。なのに、この日に限って、わたしの心を揺さぶる文字たちがそこに並んでいました。「翻訳の勉強をしませんか」――しかも鎌倉。近い! この機会を逃したら次はないと直感し、その場で電話をかけました。それが鎌倉翻訳勉強会と主宰の藤岡啓介先生との出会いです。東京外国語大学在学中には、河野一郎先生の翻訳ゼミで勉強し、当時中央大学の教授だった故・小山田義文先生の元で下訳をやっていました。しかし出版翻訳の実際に関しては知らないことばかり。藤岡先生にはそれを一から教わることになります。
  勉強会には3年間お世話になり、先生には2冊の翻訳出版を紹介されました。そのうちの1冊は超短納期の仕事だったので、お話をいただいたとき一瞬迷いましたが、せっかくのご指名です、断るなどもったいない。清水の舞台から飛び降りる覚悟で受けて、1か月間よろしく、と家族には一方的に宣言しました。わたしの勢いに家族は何も言えなかったと思います。これが『プラシド・ドミンゴ オペラ62役を語る』(アルファベータ、2001年)。もう1冊は、勉強会の食事の席で、同席していた編集者が「この本を訳したい人いますか」とみんなに声をかけた本です。問われた瞬間、わたしは「はい!」と大きな声でアピールして本を受け取りました。以前なら周りを見て遠慮がちに手を挙げたでしょうが、このときは訳したい気持ちが強かった。ちょっと恥ずかしいけれど、よくやった、と思います。それが『オードリー リアル・ストーリー』(アルファベータ、2003年)。
  あの情報紙を見なければ藤岡先生とは出会わず、出版翻訳者を名のることはできなかったでしょう。何かの力を思わないではいられません。
 
迷って悩んで
  こうして出版翻訳者の道を歩き始めましたが、その先の道はデコボコして曲がりくねって、見通しがききませんでした。何か本を探そうにも道しるべはなく、当時関心があった(と思っていた)児童福祉の本を読んでみても、いまいちしっくりこない。その頃に書いたレジュメを読むと、その作品が良書で出版するだけの価値のあるものだったとしても、編集者の気持ちを動かすことはないだろうな、と思うくらい覇気がありません。迷いがそのまま表れているかのようです。ジャンルなり作家なり、無理矢理でも暫定的にでも攻める方向を決めていれば、いくぶんでも違ったとは思いますが。
  そうした先の見えない中、藤岡先生が関わった「洋書の森」が日本出版クラブに設立され、そこのボランティアスタッフになりました。また同じ頃、サン・フレア アカデミーを紹介されて翻訳勝ち抜き道場を開かせてもらいました。この二つはわたしの居場所となって今に至ります。翻訳仲間や友人を増やし、編集者やコーディネーター、名翻訳家と出会う機会を作ってくれる、大事な居場所です。
  こう書いてくると、人脈が広がってよかったじゃないか、となるわけですが、肝心の出版翻訳の道は相変わらず見通しが立ちません。知り合った人たちの伝手でリーディングを紹介してもらって、その縁で何冊か出版は叶いましたが、そこから次がなかなか……。2015年末発売の『千の顔をもつ英雄』の仕事が終わってからは本探しもレジュメ書きも気分が乗らず、いつも頭の上に鬱陶しい雲がかかっている気分でした。
 
気持ちを新たに
  そんなときにこのコラムの話をいただきました。文章を書くと、思考や感情が整理されると言います。実際書き始めたら、はい、自分の気持ちが見えてきました。プロフィールで書いた「点数は多くない」が、鬱陶しい雲の一番の原因でした。この点数では「出版翻訳者」と自信を持って言えない、とずっと気にしていたのです。でも訳書を並べて翻訳したときのことを思い出したら、「相性の良い本に恵まれた」ことに気づきました。自分で見つけた本のレジュメは通らないし、たくさんの訳書を出しているわけではないけれど、少なくとも好みの本、相性の良い本を紹介してもらい、いくつかは出版されている。これって、悪くないんじゃないか、と。(欲を言えば、1年に1冊か2冊、関わりたいんですけどね。)
  ところで『千の顔をもつ英雄』には、召命に応えて冒険に出発する英雄たちがおおぜい登場するのですが、その英雄たちを助け導くアイテムにも興味を惹かれました。それは人だったりモノだったり出来事だったりするのですが、わたしの16年にとっては、あの情報紙とこのコラムですね。この二つのお助けアイテムに導かれて今日があります。いただいた仕事をひとつずつ、丁寧にきちんと誠実に、形にする。それができれば大丈夫。そのうちにいいこともあるだろう。それくらいゆったりした気持ちで本を探し、人と会い、そしてスキルアップに励もうと思います。
 
<   
『バレエの世界へようこそ』と『写真で楽しむ究極のまちがい探し』(どちらも河出書房新社、2015年)。図版の多い本は楽しく仕事ができます。好きです。

 
『千の顔をもつ英雄』(早川書房、2015年)。心身ともにタフな仕事でしたが、達成感を得られました。

 

コラムオーナー

矢能 千秋
(やのう ちあき)

 
レッドランズ大学社会人類学部卒業。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース本科(日英)修了。日本翻訳者協会会員、日本翻訳ジャーナル編集委員。スピーチ、ウェブコンテンツ、印刷物、鉄道分野における日英・英日翻訳に従事。サン・フレアアカデミー主催「オープンスクール」講師。
共訳『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』河出書房新社
特集:翻訳の未来を語ろう 
人間翻訳者●矢能 千秋

 

MISSION STATEMENT

フリーランス翻訳者になり16年目に入りました。最初の10年はがむしゃらに走ってきました。10年後、20年後の翻訳者としてのキャリアを模索し、いろいろな方のお話を伺ってきました。向こう10年、20年、30年の翻訳者としてのキャリアプラン、ライフプランを立てる上で、業界で活躍されている翻訳者の方々のお仕事ぶりを拝見したい、と思い、このコラムでは、2000字、翻訳、というお題に対して映し出される「人間翻訳者」の方々の「仕事部屋」を拝見したいと思います。皆さん方の「機械翻訳」に負けない「人間翻訳者」としてのキャリアの一助となれば幸いです。