イベント報告

2013/11/08

2013年度第2回JTF関西セミナー報告
新薬開発と医薬翻訳:現場が望む品質と技

 

福井 博泰
中外製薬株式会社 研究業務推進部


 



2013年度第2回JTF関西セミナー
2013年7月31日(水)14:00~17:00
開催場所●大阪大学中之島センター
テーマ●「新薬開発と医薬翻訳:現場が望む品質と技」
講師●福井 博泰 中外製薬株式会社 研究業務推進部
報告者●西村 美保子 個人翻訳者

 



中外製薬で長年新薬の研究開発に携わり、抗リウマチ薬アクテムラの開発にも貢献された福井博泰氏に、医薬翻訳のクライアントの立場から、社内翻訳のチェック業務のご経験を基に、翻訳に望まれる品質と技についてお話しいただいた。

1. 新薬の研究開発と医薬翻訳

1-a.翻訳対象文書とは

代表的な翻訳対象文書は、医薬品(等)製造販売承認申請関連文書である。その翻訳には、原文の専門性に関する基礎知識に加え、「創薬→製薬→前臨床→臨床→審査→市販後(→特許切れ)」という医薬品のライフサイクル全般に関する知識が必要であり、これらの知識が顧客満足度の土台となる。このライフサイクルの各過程で翻訳対象文書が発生するが、その目安となるのがICH国際共通化資料CTDである。このCTD作成の前と後に多くの翻訳需要がある。CTD作成前の翻訳需要としては、CTDのモジュール3~5を作成する基となる文書がある。モジュール(M)3はGMPに準拠する品質に関する文書、M4はGLPに準拠する非臨床試験報告書、M5はGCPに準拠する臨床試験報告書で、それぞれ品質、安全性、有効性に関する文書である。他に複合領域に関する文書もある。また、CTD作成後の翻訳需要としては、市販後の製造・安全性監視に関する文書がある。

1-b. 製薬会社の事情

クライアントである国内のグローバル製薬企業は、日常の口頭・文書によるコミュニケーションを日本語で行う一方、英語のコミュニケーションも必要とする言語環境にあり、社内で対応しきれない翻訳を外注に頼らざるをえない状況にある。社内で対応しきれない翻訳とは、CTD作成自体ではなく、その前後にある。
 
製薬会社が翻訳を外注するのは、1. 業務遂行には質の高い翻訳が欠かせないが、英文解釈や自然な英文表記に自信がない、2. 自分で翻訳すると本来の業務に支障を来すため、翻訳に割く時間の余裕がない、という理由からである。医薬品開発には膨大な量の文書が伴う。M5の臨床試験報告書を例にとると、一つの治験に66種類もの文書が必要で、各文書は多くの項目に分かれている。さらに、一つの医薬品を開発するのに10本以上の治験が必要となると、M5の作成だけで、まるでパンドラの箱を開けたように大量かつ多種類の文書が必要となる。このうち、代表的な翻訳外注対象文書は、1. 医師への治験参加依頼時に持参し、随時、新情報を加えて改訂する治験薬概要書、2. 治験実施計画書、3. 治験の総括報告書である。 

2. 医薬翻訳の品質‐翻訳会社・翻訳者に望むこと

翻訳依頼者は、部門特有の専門性に即したライティングスタイルと的確な専門用語や言い回しを用いた完成度の高い翻訳を希望し、時間やコストも意識している。このため、外注の翻訳者には、原文の論理的な理解力、内容に関する専門知識、専門用語や文法に関する言語能力、適切な表現力、メディカルライティングのたしなみがあるという期待をこめて翻訳を依頼している。
 
翻訳依頼者の期待に応えるため、翻訳者が心得るべきことは、1. 翻訳者、QCチェッカー、実務校閲者、メディカルライターからなるチーム翻訳と同等の品質管理を独りでこなせる実力を身につけること、2. 対象文書が誰に読まれるのか、エンドユーザー(当局など)を意識すること、3. 常に新しい情報・知識を得る姿勢を保つことである。
 
製薬会社のニーズを翻訳に反映させるための必要事項を以下に挙げる。
・翻訳に必要な製薬業の基本知識を有する翻訳者による翻訳
・依頼者が望む翻訳アプローチの事前確認(「原文重視」か「訳文重視」かなど)
・適切なスタイルに則った訳文の作成
・翻訳の目的に合った対訳用語集の活用
・翻訳の目的に合った参考資料の活用

クライアントからの信用があれば、用語集や参考資料を入手できる。これらを入手できるかどうかはクライアントと翻訳会社の関係のリトマス試験紙といえる。翻訳アプローチは依頼者によっても異なるが、訳文重視になりすぎるとチェックがしづらく、翻訳者の意見が入りがちであるため、literal/reflectiveな正確な翻訳が好ましい。

適切なスタイル

英語表記では、数字と単位の間のスペース、横線の使い分け、大文字・小文字の区別、英式・米式の区別などに注意すべきである。数字と単位の間はハードスペースを入れる、略語では大文字でもスペルアウトするときは一般名詞ならば文頭以外、すべて小文字とする、医薬品の一般名は小文字表記など、一般的なルールを知っておくべきである。
 
日本語表記に関しては、クライアントごとにスタイルが異なる場合が多い。医薬翻訳に共通のルールが望まれるが、現状としては、翻訳者自身が自分の基準を設定しておくことが大切である。そうすれば、クライアントのスタイルに合わせて、一括置換で変更することが可能である。和訳では、フォント、句読点、括弧、略語表記に気を配ると、文書の見栄えがよくなる。サ変名詞に「行う」を付けない(「設定を行います」ではなく「設定します」)、可能表現に気をつける、懸垂修飾語を避ける、といった注意も誤解されにくい文章を書く上で必要である。

まとめ

研究開発・承認申請・品質・安全性にかかわる文書は製薬会社のもうひとつの製品である。この重要な製品の作成には、クライアントの窓口の向こうにいる「真の依頼者」と翻訳会社のPMの向こうにいる「翻訳者」の理解のギャップを埋めることが欠かせない。クライアントが期待する翻訳の要素は、医薬品の「品質」にあたる「自然な文」、「有効性」にあたる「意味を的確に伝達する訳」、「安全性」にあたる「誤解を生じない表現」である。これらの要素を満たすために翻訳者に求められる要件は、翻訳の能力、文書スタイルの遵守、そしてメディカルライティングの素養である。AMWA、EMWAなどメディカルライティング能力の認定を行っている海外機関もある。メディカルライティングに強くなることは翻訳者の究極の目標である。


感想

製薬会社の文書は、外部に翻訳を委託する文書を含め、医薬品そのものを代弁して当局による製造販売承認審査の対象となるという点で、「製薬会社のもうひとつの製品」であり、医薬品同様、翻訳も人の命に関わるものであるというお話に、翻訳者として、改めて身の引き締まる思いがした。「真の依頼者」と「翻訳者」の理解のギャップを埋めるためには、クライアントからの用語集、参考資料、フィードバックの提供、翻訳会社からの翻訳内容に関する質問のやり取りがスムーズに行われるよう、日頃から両者の間に信頼関係を築くことが重要だと感じた。翻訳者としては、メディカルライティングを学ぶことで、依頼者の視点に近づけると思う。また、文書スタイルが業界内で統一されれば、翻訳者は内容に集中することができ、翻訳の効率、品質が向上することは間違いないと思う。複数の企業と接点のある翻訳会社が旗振り役となって、統一を提案していくこともできるのではないかと考えた。