翻訳支援ツールはどこに向かうのか

2013/10/21

 株式会社翻訳センター
河野弘毅(かわのひろき)

翻訳業界の関係者には機械翻訳に対して否定的な印象を抱く人が少なくありません。それは、機械翻訳によって自分たちの仕事場を価格的にも品質的にも「荒らされる」経験をしているからです。自分が翻訳を発注する立場にあるときは機械翻訳の出力をざっと眺めてなんとなく下訳に使えそうに感じても、ひとたび自分が機械翻訳の出力を修正する立場になると出来の悪いツールの後始末を押し付けられることにウンザリしてしまいます。

そもそも機械翻訳の研究者や開発者の大部分は、人の手を借りずに高品質の翻訳を出力できるシステム、すなわち「自動翻訳」の実現をその目標としています。そして、その「自動翻訳」の夢はまだ実現されておらず、現状の機械翻訳システムが出力するテキストはしばしばおかしな内容です。そのおかしなテキストを手直しして翻訳物として流通させるための後処理工程、すなわち「失敗した自動翻訳の後始末」がポストエディットですから、ポストエディットする作業者の作業性や生産性などへの配慮がそこにはありません。

これとは対照的に現在市場に流通している「翻訳支援ツール」は、翻訳という作業に着目して発展してきました。翻訳メモリ機能・スペルチェック機能・コンコーダンス検索機能など、いずれも作業を行う翻訳者の使い勝手や生産性、品質改善への効果を考慮して開発されています(もちろん、そのすべてが成功している訳ではありませんが)。ユーザーである翻訳者から「使えない」と評価された翻訳支援ツールは市場での競争で生き残れませんから、翻訳者の視点からツールを改良しようと考えるのは自然です。

最近はそれらの翻訳支援ツールにも機械翻訳機能が組み込まれていますが、そこでは翻訳者は翻訳メモリの参照結果と機械翻訳の翻訳結果が並べて表示されたワークベンチの画面を見て、どちらをもとに手直しするかセンテンス単位で判断しながら一文ずつ先に進んでいく、という作業フローが一般的です。そして一文単位であっても結局これはポストエディットなので、翻訳者の意気が揚がらないのも無理からぬことです。

しかしやっと、二十五年以上も続いてきたこのポストエディットの苦役から翻訳者を開放してくれるかもしれない研究が、いま欧州で行われています。そのプロジェクトの名前は「CASMACAT」。プロジェクトを率いるリーダーは、オープンソースの統計機械翻訳エンジンMosesの開発者として名高い機械翻訳研究の第一人者、エディンバラ大学のフィリップ・コーン教授です。

「機械翻訳の研究者が翻訳支援ツールを研究する」のは当たり前のように感じるかもしれませんが、意外にもとてもめずらしいことです。上に述べたとおり、大部分の機械翻訳研究者は少なくともこれまで翻訳支援には興味を持っていませんでした。一流の機械翻訳研究者が翻訳支援という分野に関心を持ち、そこに時間と努力を投入している状況が機械翻訳の歴史にとってどれほど画期的なことかは、おそらくもう少し時間がたたないと広く理解されないのかもしれません。しかしこれは、翻訳の歴史にとって新たな一歩となる可能性を秘めたできごとだと思います。

コーン博士とその共同研究者が開発しているCASMACATとはどのような翻訳支援ツールなのか、そしてコーン博士はどのような考えから翻訳支援ツールの研究へと関心を移してきたのか、今月号の特集でその一端をご紹介できればさいわいです。