勝田美保子さんと十印の五十年

2013/03/08

株式会社翻訳センター
河野弘毅(かわのひろき)

 
十印の勝田美保子さんに初めてお会いしたのはおそらく1992年の年末頃だったと思います。業界最大手企業の創業経営者にして業界団体会長ということでバリバリのキャリアウーマンを想像していたら、親戚のおばさん(失礼)みたいな気さくで愛想のよい小柄の女性があらわれて「私なんにもできなくて。ほんとに皆さん優秀でびっくりしちゃう。すみませんけど、お世話になりますね。」とニッコリされて、みごとに予想を裏切られた記憶があります。

私の知る限りでは翻訳業界は(おそらく通訳業界も)女性のほうが一般に男性よりも優秀で、能力に秀でた女性社長が率いる翻訳会社がたくさんあります。ですが、勝田さんのように「私なんにもできなくて」と自らの弱さを率直に語るタイプの女性経営者はちょっと他に思いつきません。もちろん謙遜でそのように語る人はいますが、どうも勝田さんの場合は謙遜やポーズではなく、本心からそう思っているらしい節があります。

しかし、その謙虚な言葉や華奢な印象とは裏腹に、勝田さんが歩んできた道は線の太い「経営者」の道としか他に呼びようがなく、勝田さんの作品である「十印」という会社は、高度成長・技術革新・バブル崩壊・グローバル化という日本経済の本道の真ん中を、時代とともに歩んできました。少しでも会社経営にたずさわった経験のある方なら、めまぐるしく変転する経済環境の中で、ひとつの会社を50年間も消滅させずに継続することがどれほど稀有な仕事なのか、よく理解していただけると思います。

日本翻訳ジャーナルでは、若きライターであるポパル明さんの筆を借りて、五回にわたり十印の創業から現在までの歩みを連載記事でたどります。勝田さんと十印の歩みを創業から今日までたどることは、戦後日本の歩みを十印という窓を通じてたどることに通じると考えているからです。この連載を通じて、読者の方ひとりひとりがこれまで自身のたどった道を振り返るとともに、自分と日本が今後進んでいく道を再考する契機としていただければ幸いです。