翻訳教育の現場で思うこと●室田 陽子

2014/11/07

翻訳教育の現場で思うこと

 
 

室田 陽子

株式会社アメリア・ネットワーク代表 
翻訳の専門校フェロー・アカデミーおよび翻訳者ネットワーク「アメリア」の運営を通して翻訳者の育成と仕事獲得のサポートを行っている。
 


フェロー・アカデミーは、来年創立40年を迎える翻訳者育成の専門校です。今回の原稿のご依頼をうけ、改めて数えてみましたら、私が関わるようになってからも既に25年近くが過ぎているのですが(びっくり!)、その歳月はそのまま、今回お題としていただいた「より良い翻訳教育とはなんなのか」という問いと向き合う時間でした。
 
そして今回、翻訳センターの河野さんが主催なさった「ISO 17100と日本における翻訳職業教育の将来」というセミナーに参加し、また新たな視点をいただきました。大変感謝しています。ただ、それと同時に、自分が携わってきた「翻訳教育」とは、なんと深くて広くて壮大なテーマだったのかと、改めて考えさせられることとなりました。
 
この「翻訳教育」という大海原で今も試行錯誤している身ではありますが、今後のより良き翻訳教育についてみなさまと議論する種のひとつにでもなればと思い、今の時点で私が考える翻訳教育の課題、言葉を換えれば「どうして翻訳教育が一筋縄でいかないのか」の、原因を挙げてみたいと思います。
 
●「良い翻訳」の基準が一つではない
 
金融業界に金融翻訳があり、医学界にメディカル翻訳が、そして報道の世界にニュース翻訳があります。さらに言えば、出版業界に出版翻訳があり、映画/テレビ業界に映像翻訳があり、昨今では企業が発信する動画情報の翻訳や、ゲーム/アプリの翻訳など、映像翻訳と産業翻訳の両方のスキルを必要とする仕事も発生しています。それぞれの業界に掟があり、よしとされる翻訳、つまり評価基準がある。また、それぞれに異なるスピードで(どの業界が遅い、とは申しませんが)、時代と共に変化しています。
つまり、「良い翻訳」の基準がありすぎて「良い教育」のゴールも無数にあることになります。
 
●翻訳という仕事の性格上、時代の最先端を走らなければならない
情報戦略が、いつの時代も企業の命運を分けるがゆえに、最新の情報をいち早く翻訳するニーズには高いものがあります。例を挙げれば、自動車業界がしのぎを削るエコカー技術の論文翻訳や、IT業界で毎日のように発信される新製品、新機能のリリース情報の翻訳など、定訳がないジャンルでも翻訳者が求められています。
ベテラン翻訳者が存在しない新ジャンルの翻訳者の育成では、講師の確保や学習カリキュラムの作成もゼロからスタートせざるを得ません。手探りで、かつ時間との勝負でもあります。
 
●翻訳者には二面性が求められる
仕事として発生する翻訳では、程度の差はあれ専門性があります。翻訳者は、まず訳す分野での専門性の高さを求められます。一方、対象読者は文書の目的によって様々ですので、その都度、読者に合わせた文章表現になるよう、文章を自在に操る力量も必要です。通常ひとりの人間の中に共存しにくい、この二つのスキルを身に付け磨いていくことは、決してたやすいことではありません。
例えばIT翻訳では、SEやプログラマ出身の方が多く活躍されていますが、全てのIT翻訳者がIT企業のマーケティング/PR文書などにも対応できるかというと、そうではない現実があります。例えば、技術者なんだけど実は無類の文学好きだとか、日本語に対する鋭利な感覚を身に付ける何らかの機会が過去にあったとか、そういった一部の方だけが活躍している印象です。
この、語学的素養と専門知識の両方を同時に身に付ける機会を得られた人は限られているのが現状ではないかと思います。
 
●翻訳者には、あくなき探究心が求められる
翻訳は「ここまで調べれば十分」ということがない世界だと思います。フェロー・アカデミーで学習中の方を見ていると、ご自身が興味のある分野の課題では「寝るのも忘れ、とことん調べて」素晴らしい翻訳をなさいます。そうでない課題との差は歴然です。
翻訳者に仕事を依頼する企業からすれば、全ての仕事を「とことん調べて」くれと言いたいところでしょうが、自分の時間を削ってでも調べ上げるほど何にでも興味を持てる人に、一人前の大人を育てるのは、なかなか難しいものです。
 
●翻訳者は、「見えない基準」と勝負しなくてはならない
翻訳は資格を得れば仕事が得られるという職業ではありません。JTFの「ほんやく検定」、諸外国の国家試験などもありますが、その資格を持っていても翻訳の発注元企業が課す「トライアル」に合格しないと仕事は得られません。また、翻訳会社の方々はご存じのとおり、たとえ合格でも合格すれすれの評価だった場合には1年たっても仕事の依頼がない、という現実がありますので、翻訳者は「圧倒的な高評価」で合格する必要があるわけです。この「トライアル」に全国共通の基準などがあるわけでないのですから、新たな取引先を増やそうとする翻訳者は、そのたびに見えない評価基準と勝負することを強いられます。
そして、評価基準が見えないということは、そこで勝つ方法を教育することも、難易度の高いミッションだということなります。
 
以上、私がフェロー・アカデミーを学び舎に選んでくださった方々に、翻訳者として活躍していただくにはどうすればいいか、そのための教育はどうあるべきか、日々考え、感じている課題を挙げてみました。
中には部分的に解決できたこともあり、解決策を検証中のこともありますが、なにしろ翻訳という仕事自体が変化と拡張を続けていますので、それとの追いかけっこに終始しているというのが正直なところです。
それでも、翻訳という仕事はやはり面白くやりがいのある仕事です。……というのは受け売りで、修了生のみなさんからよく聞かせていただく声なのですが、そういう仕事を目指す方たちの成長過程を見つめていられる私の仕事も、本当にありがたい仕事だと感じています。
 
 最後に、JTF会員のひとりとして提案があります。「ほんやく検定」を、企業に売り込んではいかがでしょうか。英語公用語化とまではいかなくても、多くの企業が社員の英語力強化に力を入れています。ある金融大手では数年以内に全社員にTOEIC800点以上の取得を課しているそうで、取得するまで何度も受験し続けなければいけないそうです。
TOEICより専門知識を必要とし、ビジネス上の読み書きに必須の語学力が問われる「ほんやく検定」を、企業人の必須資格とすることができたら、新しい翻訳者の専門教育機関の設立と発展に追い風になるのではないかと考えます。