世界を見る窓を磨く●遠田 和子

2015/05/08

世界を見る窓を磨く 


 

編集委員 遠田 和子


WordSmyth Café」
コラムオーナー


 

言葉は世界を見る窓です。人間はモノに名前を与えることで、そのモノを明確に認識できるようになります。異なる言語間では窓の造作が違うので、モノの見え方は微妙に異なります。そんな違いの話から始めましょう。
 
“It looks like a big fly.” アメリカから日本を訪れた小学生が、セミを人生で初めて見たときの第一声です。”Eh? A big fly? No, this bug is a cicada.” と答えたものの、よく見ると確かにセミはハエに形が似ています。男の子には、彼が知らなかった単語cicadaを教えました。「大きなハエ」に見えた昆虫にはcicadaという名前がある。それを知ることで、男の子はハエとセミの違いをくっきりと認識できるようになりました。そしてcicadaという言葉とともに、セミ取りの楽しさ、日本の暑い夏の一日を身体に取り込みました。
 
その後、海岸に行ったときのこと。「日本では、seaweedを食べるんだよ」と言うと、男の子は”Yuck!”(オエッ!)と反応しました。海藻を食べる習慣のない英語圏では、日本人には違いが歴然なわかめ、ひじき、もずくなど、全て十把一絡げのseaweed でしかありません。海の雑草です。しかし男の子はみそ汁に入ったわかめを平気で食べたので、日本語wakameを教えました。この子はwakameという言葉とともに、その味と食感を身体に取り込みました。
 
残念ながら、この小学生のように異文化の中で言葉を覚える体験はなかなかできません。そこで異言語の間を橋渡しする翻訳が必要になります。私の尊敬する翻訳者が、京都老舗旅館の懐石料理メニューを英訳したとき、具材にさまざまの海藻が含まれていたそうです。単純に訳せばseaweedです。もしメニューにseaweedと記されていたら、外国人のお客さんはどう感じるでしょう?おそらく小学生の男の子と同じように、心の中で “yuck!“ と呟くことでしょう。高級料理にweed(雑草)が入っているなんてとんでもない。そこで翻訳者は、「海藻」の訳にsea lettuce とsea vegetableを適宜使いました。seaweedという言葉の窓から見えるのは「食えない雑草」だけれど、sea lettuceやsea vegetableという言葉の窓から見えるのは「野菜」。れっきとした食材です。
 
このように翻訳者は、単語を一つ一つ慎重に選びます。異なる言語という窓を通したとき、元の言語の窓と同じ景色が見えるよう心を砕きます。
 
翻訳の未来は、機械にはマネのできない感性と職人技にある。これが私の信条です。「言葉の職人」(wordsmith)として、世界を見る窓を正しく、歪みなく、一点の曇りもなく磨き上げる。そんな窓の向こう側に翻訳の未来が見えます。