4-B 出版翻訳入門~産業翻訳からのアプローチ

2018/01/19

井口 耕二 Inokuchi Koji

フリーランス翻訳者、翻訳フォーラム共同主宰。
大学卒業後、大手石油会社勤務を経て、1998年に技術・実務翻訳者として独立。翻訳フォーラム共同主宰。最近はノンフィクション書籍の翻訳者としても知られる。主な訳書に『スティーブ・ジョブズI・II』(講談社)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』、『リーン・スタートアップ』(日経BP社)、『リーダーを目指す人の心得』(飛鳥新社)、『レスポンシブル・カンパニー 』、『新版 社員をサーフィンに行かせよう』(ダイヤモンド社)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社新書)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル4人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社)がある。

松丸 さとみ Matsumaru Satomi

フリーランス翻訳通訳者・ライター。
時事ニュースや広報素材などの翻訳の他、ライティングや通訳など。著書に『泣ける犬の話』、『錦織圭物語』がある。


報告者:岡部師才(フリーランス翻訳者)

 



松丸:
本日のセッションは、スティーブ・ジョブズ著作の翻訳者として有名な出版翻訳者である、井口さんをメイン講演者として、私がいろいろ質問していく形で進めていきたい。途中の質問も歓迎する。まず、産業翻訳から出版翻訳へ移行された、バックグランドのお話を伺いたい。

井口:
石油会社勤務時に社内でエネルギー系の論文などの翻訳を手掛けていた。子供が生まれた時に、夫婦共働きであったことと、翻訳フォーラムの中心メンバーに誘われたことをきっかけに、フリーランスの可能性を探り始めた。

松丸:
翻訳フォーラムとは。

井口:
パソコン通信の時代、電子会議室(SNSのようなもの)に翻訳フォーラムというのがあり、現在に至っている。当時数千人から一万人くらいがアクセスしていた。

松丸:
出版翻訳に移行されたきっかけは。

井口:
産業翻訳を好んでやっていた時期に出版翻訳者の照会を受け、内容に興味があったため自分が手を挙げた。2001年ダイヤモンド社出版の「できる人ほど上司を使う」である。このように、照会時に自分を売り込むのも一つの方法ではないか。その後継続依頼はなかったが、2005年、私の記事を翻訳フォーラムや翻訳関連のブログで読んでいただいていた故・山岡洋一氏より、スティーブ・ジョブズ非公認の伝記を翻訳する仕事を紹介いただいた。山岡さんとフォーラムは交流があったらしく、ビジネスと技術分野両方に詳しい人を探されていた。このとき出版された「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」は3万部ならベストセラーとされる業界で4万部のヒットとなり、以降一年2冊ずつくらいの翻訳を受託することになった。

松丸:
下訳やリーディングの仕事についてどう思うか。

井口:
翻訳、出版業界は門が狭いため、いずれも参入するきっかけとしてはよいだろう。ただし下訳の修正は手間がかかるので私は好まない。またリーディングと翻訳者は通常別の人が行う。

松丸:
依頼が継続しない場合の対策は。企画書は必要か。

井口:
1冊出したら営業をかけてはどうか。企画書はあった方がよい。出版者も優秀な翻訳者を常に必要としている。

松丸:
出版翻訳では対象読者が一般の方となるが、スタイルの違いはあるか。

井口:
あまり違うとは考えないが、台詞があるという点では異なる。

松丸:
マーケティング文書のトランスクリエーションについてどうお考えか。出版翻訳でもあり得るか。

井口:
トランスクリエーションは単なる翻訳だという立場だ。原文と翻訳、それぞれの言語で読者が読む内容を一致させるには、背景を翻訳で表現したり、逆に言葉を差し引いたりする必要がある。「Good morning」を「良い朝ですね」とは訳さない。

松丸:
夏目漱石も「I love you」を「月がきれいですね」と。

井口:
それは極端な例だと思うが(笑)。

松丸:
ボリュームや納期はどうか。

井口:
一冊7~22万ワード。一案件は1カ月以上。通常週4日稼働一日7ページほどで予定を立てる。

聴講者:
産業翻訳では1日およそ1500~2000ワード要求されるが、出版翻訳ではどうか。

井口:
本の出版日が基準で一日あたりという概念はない。一日300ワードでできたり、ジョブズなど納期が押している翻訳なら4000ワードだったりする。読者対象が広く制約も多いため、同じ量でも作業時間は産業の倍必要だ。

松丸:
ページとワード数との換算率は。依頼時のPDF原稿や、訳出したデータは印刷するのか。

井口:
250~400くらい。紙のほうが解像度を高く感じるので、印刷しテキストファイルで作業する。一、二章ずつ順次訳出したものをまた印刷し、繰り返し修正を行いながら進める。

松丸:
対訳チェックは行っているか、また修正を依頼する編集者は怖くないか。

井口:
対訳チェックは結果的に時間がかかる方法で、産業翻訳時代から行っていない。編集者は共同作業者、第一読者であり、怖くない。コメントは真摯に聞くが、最終的な責任は名前が出る翻訳者にあるため、原稿に手を入れたゲラを返却することはお断りしている。

松丸:
名前が出ることは名刺代わりになるか、また恐怖感はないか。

井口:
名刺代わりになり、親族も安心する。一方誤植や誤訳などは証拠が残り釈明がきかない。責任が重いが裁量権が大きくやりがいがある。

松丸:
熱心な読者から辛辣なレビューもあると思うが、ハートが強くなければできないのでは。

井口:
私はその面では強いみたいだ。ブログに書き込みがあったが、もっともな意見には誠実に回答し、訳文に意図があった場合はそれを説明している。

松丸:
お金の話についはどうか。

井口:
出版翻訳はお金にならない。印税率5%、定価1,500円、2000部でも印税は15万円である。1年に4冊出せば多いほうで条件がよくても生活を賄えない。増刷になれば増収になるが、概ね二年に一度くらいではないだろうか。ジョブズ関連など話題性の多いものを扱う私は幸運なほうだろう。出版翻訳は継続していれば10万部を超えるようなヒットを十分狙えるものの、20年に1回1000万円の収入があったとしても、20で割れば一年で50万円にしかならない。

聴講者:
Kindle版の印税も同じような計算か。

井口:
Kindleは実売部数によって計算する。再販制度がなく現状予想しづらい要素があるが、今後は増えていくだろう。

聴講者:
契約をしてから入金までの期間はどれくらいか。

井口:
契約から翻訳完了におよそ3カ月、ゲラのやり取りに2~3カ月、印刷と配本に1カ月以上、合わせて契約から販売までは半年以上が経過する。報酬の入金は発売後1~数カ月くらいだ。

松丸:
状況が厳しい出版翻訳を専業にした理由は。産業、出版、それぞれに対する向き不向きはあるか。

井口:
裁量権があり、面白いということが大きい。独立時の長期目標で60歳以降はやりたい翻訳だけやろうと考えていたことも今につながっている。また、著者の言いたいことを伝える喜び、ファンができる励みがあり、家庭の状況も要因の一つになった。出版翻訳は、コツコツと仕事をするのが苦手な人、人づきあいが苦手な人は出版には不向きかもしれない。

聴講者:
5~8%という印税の比率は実力で決まるのか、また最近の傾向はどうか。

井口:
全体の流れとして下がる傾向にある。原著者の印税もあるため、3~7%くらいではないだろうか。

聴講者:
突き合わせのチェックに代わる対策はあるか。

井口:
一行ずつ翻訳し、一行ずつ消していく方法で作業している。

聴講者:
修正されたゲラの受領時は、頭の切り替えが大変では。

井口:
切り替えには苦労しない。時期を置いて原稿を見ると新たな発見や気づきがある。

松丸:
最後に出版翻訳を目指す方にポジティブなアドバイスをお願いしたい。

井口:
本日は赤裸々に状況をお話しさせていただいた。金銭面では厳しい面もあるが、産業翻訳との兼業ならリスクが少ない。やりたい人はいろいろ動いてみることをお勧めする。