2-A 翻訳の過去・現在・未来 ~解体新書からAI、そしてその先へ~

2018/01/19

高橋 さきの Takahashi Sakino

1984年東京大学農学系研究科修士課程修了。以来特許翻訳、学術翻訳など翻訳ひとすじ。共著に『翻訳のレッスン』、『プロが教える技術翻訳のスキル』(以上講談社)、『リーディングス戦後日本の思想水脈』(岩波書店)など。訳書にシルヴィア『できる研究者の論文生産術』(講談社)、ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』(青土社)など。翻訳フォーラム共同主宰。フォーラムイベントでは「日本語の読み・書きの技術」や「翻訳技法」について話すことが多い。

深井 裕美子 Fukai Yumiko

上智大学外国語学部フランス語学科、JR東日本、番組制作会社を経て現職。宣伝、ファッション、アート、演劇、ニュースやエンターテインメント系の英日・日英翻訳をするほか、翻訳学校や各種セミナーで辞書や正確・迅速な原文読解について話をしている。「読めてないものは訳せない」が座右の銘。入会して20年超になる翻訳フォーラムでは、シンポジウムやセミナーの企画運営を担当している(詳細は fhonyaku.jp )。共著に『翻訳のレッスン』(講談社)。ウェブサイト「翻訳者の薦める辞書・資料」を運営。
 
報告者:高橋 さきの ・ 深井 裕美子
 



 まず深井が、今回の発表をするに至った経緯を説明した。高橋と深井には専門分野やキャリアの上で共通点はないが、どうしたら良い翻訳ができるかについて20年ほど前より「翻訳フォーラム」で討議を重ねてきた。今年5月の「翻訳フォーラム・シンポジウム」で「直訳と意訳の間で」をテーマにした際、時代によって翻訳が、あるいは翻訳に求められるものが変わってきている様を整理する必要を感じ、高橋が簡単に発表した。今日はその発展版である。来場の皆さんも翻訳に関わり始めた時期が様々で、それぞれの持つ「スタンダード感覚」が違うかもしれない。今日の話を通じて、自分の過去・現在・未来にも思いを馳せて欲しいと述べた。

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 第1部では、高橋が、この20年という短い時期であってさえ翻訳者各人の持つ「スタンダード感覚」が違うというのは、この時期が《翻訳の激動期》だったからではないかと問いかけ、特に、(1)2016年秋のグーグル翻訳ショック後、世の中の「翻訳」を見る目が変わってきており、それにともない翻訳という仕事について危機感を抱くようになったこと、(2)翻訳業界内部についても、実際に訳文を使うことのない発注専門部署などは、「機械翻訳にかけたものを人間が手直しすれば、人間が最初から訳すのと同水準の訳文を安く作れる」といった惹句を信じてしまいかねないことに言及した。
 また、言語AをBにする、言語BをAにするというだけなら機械でもできなくはない状況になっている以上、これからは、「翻訳」とは何なのかについて、翻訳者自身が、業界内外の人たちにもわかるように発信していかねばならないのではないか、であればこそ、翻訳者同士、「翻訳とは何か」について、基本のところから議論していく必要があるのではないかという提起がなされ、「翻訳というのは、(1)原文の情報を過不足なく反映させた、(2)すとんと腑に落ちる読みやすい訳文を届ける仕事です」という自らが使用している説明が例として紹介された。
 その後、仮に現況を理解するだけなら、翻訳をとりまく状況をここ何十年か分把握しておけばすむが、「翻訳とは何か」という根本から考えるのであれば、最低限、日本で欧州言語の翻訳が開始された江戸時代中盤、つまり18世紀前半くらいから現在までの300年ほどを、ざっとでよいので知っておく必要があるという認識のもと、江戸時代中盤から高度経済成長期あたりまで、つまり、翻訳が《紙とペン/タイプライター》を使って行われていた時期までについての検討が行われた。
 この期間については、各地で「おくに言葉」が話され、全国共通の書き言葉が漢文の「訓読文」、第一外国語が漢文の「白文」であったような状況だったのが、全国の共通語が「標準語」、第一外国語が「英語」になり、「訓読文」が教養の地位まで後退したというふうにざっくりまとめられるだろう(なお、中高の英作文は、語順の入れ替えという「白文→訓読文」的訳出方法を比較的残している)。また、当初『解体新書』(1774)のように欧州言語から漢文(返り点つきの白文)への訳出だったのが、ほどなく訓読文への訳出となり、明治に入ってからは、文体もいろいろ工夫されるようになった。また、印刷方法も木版から金属活字を用いた活版へ、筆記用具も筆から鉛筆等へと変わっている。
 ここで高橋が強調したのは、翻訳にたずさわった人たちが、21世紀現在の私たち翻訳者とほぼ同じような苦労を重ねてきたという点であり、文章をどこで区切るか(パンクチュエーション)、語彙をどう訳すか(造語)、文体や表現の発明(たとえば文脈をふまえた文末表現)、わかりやすい文章の執筆(戦後の国字改革)などといった発明や工夫の積み重ねのうえに、今日の翻訳があるという点である。

 

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 第2部は深井が「辞書と通信の30年」と題し、翻訳者を取り巻く環境がどのように変わってきたかを報告した。辞書は紙から電子、CD-ROM、ウェブ、アプリへと変化し、また原稿は紙からフロッピー、CD-ROM、添付ファイルへ、やり取りの方法は郵便からバイク便や宅配便、メール、FTPやクラウドへと変わってきた。翻訳者同士のつながりもパソコン通信から掲示板やSNSへと広がりを見せた。通信環境がアナログからデジタルになり、通信費も従量制から定額となったため、どこにいても仕事ができるようになったのが近年の特徴である。

 

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 第3部は再度高橋にバトンタッチ。80、90、00、10年代に分けての説明が行われ、時期によって、翻訳者になる典型的プロセスも異なっていたことなどが指摘された。また、《原文↔翻訳者↔訳文》という関係に大きな変化をもたらす・もたらしかねない変化として、下記3点が指摘された。いずれにも《機械・ツール》が大きく係わっている。

[1] 紙・鉛筆からワープロ・PCへ:

 ①80年代から90年代にかけて、翻訳にワープロやPCが使用されるようになると、頭の中身を機械に一時的に預けながら翻訳するという機械と人間の協働時代に入る。②当初「紙」で支給されていた原稿がその後電子化された状態で支給されるようになると、翻訳作業にも変化が生じた。

[2] 翻訳メモリー(TM)の登場:

 ①分野によっては、2000年代になるとTM使用が本格化し、②過去の複数人物による訳文がパッチワークのように入り混ざった中間的原稿を、一部は初訳、一部は手直しといったかたちで処理することが行われるようになり、③翻訳史上、そしておそらくは人間の言語生活史上はじめて、文脈を問わない「使い回しのきく訳」「再使用可能な訳」が求められるような分野が出現した。その結果、④翻訳の対価にも悪影響が及び、⑤「ぶちぶち訳」の頻出をはじめとする訳文への悪影響も顕在化。⑥2010年代なかばになると、おそらくはその反動として、本来の(文脈に即した)翻訳のことが、「トランスクリエーション」と呼ばれる事態まで生じることになった。

[3] 流暢な機械翻訳(MT)の登場: 

 ①2016年秋、グーグル・ニューラルネットMT(GNMT)が登場した。GNMTでは原文を一度数字の列に変換し、その数字の列にもとづいて一から「作文」するため、訳文は比較的流暢なものができる。つまり、原文と訳文の対応性が低くても(両方の言語に通暁していない層からは)高評価を受けやすく、「MT出力物を人が手直しすれば、一から人手にかけた場合と同等の製品が速く・安くできあがる」という惹句の温床となりやすい。
 ②MTは原理的に確率計算の塊ではあるが、従来のルールベースMTや統計ベースMTと比べて、GNMTは、確率への依存度がはるかに高く、高橋は、翻訳者はそのあたりの事情を自分で確認できた方がよいとして手順を紹介した(当日使用例文は「鮭を解凍する」。「鮭」を「シャケ」に変えたり、「解凍する」のテンス、アスペクト、コピュラなどを変えたりした場合に、使用語彙や訳文がどう変わるか、また、同一文中に「冷蔵庫」が出てきても状況は改善されないことなどを提示した)。「こうなっているはず」や「こうしたはず」が通用しないということは、人手による訳文の全面チェックが複数回必要ということになり、原文の内容を過不足なく反映した訳文を作成するという目的での使用は著しく困難といわざるをえない。
 ③MTについても、方式による分類(ルーラル、統計ベース、ニューラルネット)ではない目的別分類が必要だろう。たとえば、GNMTは、とりあえず英語圏の商圏拡大目的等には大きく貢献するだろうが、原文の内容を過不足なく反映した訳文を作成するという目的からは最も遠い位置にある。
 ④なお、MTのタイプを問わず、MT出力物をエディットする作業は、作業者の言語感覚に不可逆的な悪影響を及ぼすことは念頭に置いておくべきだろう。
 ⑤MTに関しては、原文の内容をブラウジング・スキミングする目的には、(人手をかけることのないかたちで)MTを使用、実際に使用される文書で「原文の情報を過不足なく反映させた、すとんと腑に落ちる読みやすい訳文」が必要とされる場合には、人手による翻訳というふうに棲み分けが行われるべき時期にさしかかっている。
 上記をふまえたうえで、高橋は、下記5点について確認を行った。

 

1.    機械と人間:    文書の用途に応じた棲み分けを!
2.    機械とのつきあい方:    仕事環境を自分で選ぼう!
3.    よい仕事:    受注先や仲間と緊密な情報交換を!
4.    「翻訳」を正確に定義しなおそう!
5.    「巨人の肩」:    先人の工夫の積み重ねを大事に!